記録

記録

なにもかもが輝いて手をふって

f:id:miwa19940524:20190117010509j:plain

静岡駅前行き、と書かれたバスが信号待ちをする僕の前をゆっくりと走っていく。窓際に座る人が、窓ガラスに頭をもたれさせながら、ぼんやりと外を眺めている。松屋、渋谷マークシティ、サンデーコーヒー、道玄坂マンモス、餃子の王将。目に見える看板の言葉を頭の中で唱える。バスに乗っている人は、目線が違うので異なる景色、看板が見えているのだろうか。その時は、ちょうど夜の19時前で、目の前を通り過ぎていったバスは22時には静岡に着くだろう。東京のネオンを夜のバスから眺める時の、寂しさと安堵が混じり合った気持ちを思い出す。最近はめっきり夜行バスに乗っていないなあ、どこかに行きたいなあ、なんて思いながら映画館へ急いだ。ユーロスペースで杉田協士監督『ひかりの歌』を観た。公募で選ばれた4つの短歌から作られた映画だ。

反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった

自販機の光にふらふら歩み寄りごめんなさいってつぶやいていた

始発待つ光のなかでピーナッツは未来の車みたいなかたち

100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る

この短歌を元に4つの短編が連なる。一言で感想を述べるのならば、等しくさびしく等しく優しい映画だった。映画の中では、常に誰かから誰かへの想いが描かれる。そこには、大きな声の好きも、愛してるもない。ただ誰かから誰かへのまなざしがあるだけだ。そしてそのほとんどが交わることのない想いだ。交わることのないさびしさと、そんな彼ら彼女たちを捉えるカメラの優しいまなざしは等しくスクリーンの中で同居する。個人的には、2つ目の「自販機の光にふらふら歩み寄りごめんなさいってつぶやいていた」を元にした短編に胸をつかまれた。ガソリンスタンドが舞台になっているのだが、スタンドの中の自販機に自分の幼い頃の記憶とリンクする部分があった。僕の祖父母の家は、スタンドを経営していた。家とスタンドが繋がっており、裏口からそのまま事務所に入れるようになっていた。そこには、自販機があった。夜、ジュースを買っておいでとおばあちゃんから小銭を貰い、裏口からスタンドに入ることがよくあった。閉店したスタンドの、真っ暗な事務所の中でうなりながら光る自販機は怖くもありながら、胸を高鳴らせた。誰もいない、静かな暗い場所で、自販機の光に照らされながらガタンと飲み物が落ちる音を何度も聞いた。そんなことを、映画を観ながら思い出した。

祝日の月曜日に芸劇で、ままごとの柴幸男作演出の多摩美演舞卒制演劇『英雄』/『運命』を観た。『英雄』は、auに引っかけ、ドコモ、ソフトバンク、auの三大携帯キャリアの対立をロミオとジュリエットに置き換えた見事なパロディだった。ロミオとジュリエットと言えばあのバルコニーだが、劇中ではバルコニーが2chのスレッドであったり、ロム専やグンマーなどのネットスラングが多用され、平成生まれにとっては笑うことのできるワードだった。劇中での携帯は、主にガラケーのことであるが、終盤にスマホが登場し、物語を掻き乱すことになる。平成という時代をある側面から見た場合、「携帯」の登場は欠かすことのできないものであり、平成最後という節目に中世ヨーロッパの古典と平成を携帯によって結びつけ新たな物語を作り上げる手腕に唸った。また、恋愛関係になるのは同性であり、そこにも時代のアップデートを見た。お正月に、NHKで平成ネット史が放送され話題になっていたが、『英雄』はある意味で演劇版平成ネット史だった。

『運命』は、『英雄』とはガラッと舞台も時代も変わり、現代の大学が舞台になる。13人の登場人物が一人一人登場し、「運命の話をします」と、各々に課された運命について語る。登場する大学生たちは「生贄」や「友食」、「孤独」から「分解」「留年」「便秘」まで様々な運命を背負っている。そして彼ら彼女たちは、個人に課された運命よりももっと大きな運命の前になすすべもなく食べられていく。そして排便され、ともに等しい存在となる。怪物から逃げ惑うパニック劇でもあるし、個人の運命をも凌駕するもの、すなわち神が登場する演劇でもあった。ちなみに、「運命」は、美味しいものを食べた時の「うんめー」とかけている。だから食べることが物語を繋いでいる。全く関係ないが、僕が唯一ライブに行ったことのあるアイドル、ゆるめるモ!の曲に「うんめー」というのがある。大森靖子が提供しているとても好きな曲だ。

www.youtube.com

タイトルは運命を意味しているのにずっと美味しいの意味の「うんめー」だと思っていた。だって歌い出しがポテチなんだもの。ちなみに、銀杏BOYZの「恋は永遠」の歌詞の最後にも「うんめー」が出てくる

夕暮れの街 泣いたり笑ったり
白いブラウス 溶かしてよメロディ
Strawberry fieldsの夢
セブンティーンアイス うんめー

この「うんめー」も「運命」なのだろうか。

そんな銀杏BOYZのライブへ先日行ってきた。 

f:id:miwa19940524:20190116224117j:plain

おそらく、多くの人がそうであるように銀杏BOYZの曲は各々の人のある時期の思い出にべったりと張り付いている。この日はある意味で、僕にとっては高校時代の清算をしたライブだった。峯田さんが「あなたが自転車を漕ぎながら、電車に乗りながら聴いた曲かもしれない」と言って歌い出したのが「夢で逢えたら」で、もう目頭が熱くなってしまった。高校生の時、自転車に乗りながら、立ち漕ぎをしながら聴いていたのがまさにその曲だったのだ。

www.youtube.com

峯田和伸は恥ずかしいほどに、けれども切実に愛してるも好きも大きな声で叫ぶ。その叫びは生きていることそのものだ。ありふれた言葉ではあるが、格好つけないかっこよさがそこにはある。今回のライブは、「世界がひとつになりませんように」という題がつけられている。各々の捉え方は自由だが、僕はこれをばらばらでいることの肯定だと思った。ひとつになれないからこそ、だからこそ愛してるも好きも切実さを帯び、僕たちは必死に誰かと繋がろうとするのだ。そんな生きていることそのものを見せつけられた後のアンコールでの「ぽあだむ」の圧倒的なポップさに感動した。

80円マックのコーヒー!                            
反政府主義のデモ行進!
愛と絶望とキャミソール!

この全てが並列に歌われることに痺れる。そしてその後に続くのが

I WANT YOU だぜ
I NEED YOU だぜ
I LOVE YOU べいべー

このありふれた言葉による絶対的なポップさに胸がいっぱいになった。
銀杏BOYZの曲を何度も何度も聴いていたのは中高生の時だ。こんなことを言うのは本当に恥ずかしいのだが、世代でもなんでもない僕は、銀杏BOYZを聴いているのは学校で自分だけだと思っていたし、自分のためだけの音楽だと思っていた。あれから何年も経ち、今はほとんど聴くことはない。けれども、ふと振り返った思い出の中でいつだって光りかがやいているのは銀杏BOYZで、ずっとそこで鳴り続けている。

www.youtube.com

『ひかりの歌』での言葉にされない愛も、銀杏BOYZの大声で叫ばれる愛も、僕はどちらも等しく優劣なく存在する世界であってほしいと思っている。どちらも愛であることにはかわりないのだから。