12月8日(月)
今朝も山がとても綺麗な朝だった。朝日に照らされてピンクに発光していた。

『三四郎のANN0』を聴きながら仕事へ。3年ぶりに年越しラジオをやるということで再びラブレターズ溜口によるオールナイトニッポンクイズボーイが登場するのではないかと期待している。定時退社。『チャンスの時間』を観た。相変わらず永野はキレッキレで最高だ。絶妙な例えも上手い。
12月9日(火)
『霜降り明星のANN』を聴きながら仕事へ。定時退社。アマプラで『ゴールデンコンビ2025』を観た。去年も思ったけれど、せっかく面白い人たちを集めてセットも豪華なのだから即興ネタなのが本当にもったいない。それがウリなのはもちろん分かるが練られたネタの方が面白いに決まっている。MCの千鳥のツッコミに救われている感が歪めない。
12月10日(水)
とても寒い朝で駅前の温度計はマイナス4度だった。『爆笑問題カーボーイ』を聴きながら仕事へ。夜は『ゴールデンコンビ2025』の続きを観た。最初から最後まで面白かった真空ジェシカ川北とアンガールズ田中のコンビが優勝して嬉しい。アンガールズ田中が自身を翻弄してくれるだろう相手として川北を選んだ時点でコンビとしてのバランスが良かった。数年前よりも確実に川北さんのボケを世の中が受け入れているので今年こそM-1優勝がありえる。
12月11日(木)
『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』を聴きながら仕事へ。3時間の残業。『有吉クイズ』『テレビ千鳥』を観た。『有吉クイズ』は一発屋芸人のネタを生成AIにブラッシュアップしてもらう企画で、その本筋とは関係なく一発屋芸人が一つのパソコンを覗き見る光景がやけに面白かった。

『テレビ千鳥』はキャイ〜ンのウドちゃんと山形ロケをする企画。ここ最近で1番面白い回だった。人が膝から崩れ落ちてリアクションする姿ってこんなに面白いんだと感動すらした。関根勤がウドちゃんのリアクションの面白さを千鳥が見つけてくれて嬉しいと喜んでいたのも愛が見えて良かった。
12月12日(金)
朝8時のあずさに乗って東京へ。車内で今週の『ばけばけ』と『じゃあ、あんたが作ってみろよ』の最終回を観た。『じゃあ、あんたが作ってみろよ』は話数が進めば進むほど勝男がどんどんまともになっていき、もちろんそうでなければいけないのだけれど、まともになればなるほど物語から魅力が無くなっていくジレンマがあった。けれども最終的に2人がまた付き合うなんていう安易なオチにしなかったのはとても良かったし(付き合っていた時に押し殺されていた鮎美の気持ちは無かったことにはならないので)、ラストが勝男と鮎美がそれぞれに歩いて街の中に溶け込み、カメラが引いて街全体を写したのもこのドラマにぴったりの終わり方だった。

『あののANN0』を聴いていたらあのちゃんが「ゲストをネッチネッチネッチネッチ深掘りしていきます!」と言っていて、その言い方がポイズンガールバンドのM-1グランプリ2006での靴の中にマヨネーズが入っている時の「ネッチョネッチョネッチョネッチョ」に酷似していた。ポイズンガールバンドが活動再開することを2025年も祈っておく。
そんなこんなで時間を潰していたらあっという間に東京駅に着いて東海道線の熱海行きに乗り換え、4年ぶりに真鶴へ行った。

ここまで5時間の道のり。とりあえずお昼を食べるために駅前にある「鶴鮨」へ入った。4年前と変わらない明るい女将さんが出迎えてくれて、地物にぎりを注文した。

金目鯛、太刀魚、あわび、黒ムツなど錚々たる寿司たちはどれもほどよい歯ごたえと油の乗り方で一口食べるごとに、美味しい…と感動した。甘海老のお味噌汁も旨味がこれでもかと汁に溶け出ていて絶品だった。お腹を満たし、真鶴出版へと向かった。道中、おばあさんに郵便局への場所を聞かれてGoogleマップを見ながら一緒に歩くなどした。最近引っ越してきたばかりとのことだった。真鶴出版は本当にこの道であってる?と不安になるような路地の先にあった。

ここでは『真鶴町まちづくり条例 美の基準』とのもとしゅうへい『海のまちに暮らす』を購入した。『美の基準』は真鶴町が美しさを保っていくためのデザインコードがまとめられている本で大変面白い。美しさとはそうあろうという意志がなければ保つことができないのだと実感させられる。

真鶴出版をあとにして、背戸と呼ばれる山沿いに張り巡らされた坂や階段を登ったり下ったりしながら港を目指してひたすら歩き回った。

坂道をはあはあ息を切らしながら一歩一歩踏み出して歩いているときに不意に、旅先で味わうあの何にも変え難い心が満たされる感覚に襲われた。顔を上げると林の向こうに海が見えて、ああまたこの街に来て良かったと思った。

港へ辿り着くと、ちらほら釣りをしている人がいるだけで他は何もなかった。真鶴のこの飾らない何もなさがたまらなく好きなのだ。

貴船神社まで歩き、お参りをしてから再び港に戻りまた坂を登って今日泊まる宿へ向かった。道中、とても良いトンネルとバス停を見かけた。

宿は4年前と同じ宿で、素泊まりにしては少し高すぎるがここからの景色が格別なのだ。

陽が沈むまでずーっと景色を眺めていた。夜になり、外で夕飯を食べてからまた部屋から見える港を眺めた。家々の窓から漏れる光が美しかった。

12月13日(土)
日の出を見るために朝6時に目覚ましをかけていたが5時半には目が覚めた。まだ暗い外を窓から眺めていると港からは漁船が数隻海へ出ていくのが見えた。あいにくの曇りで日の出の瞬間は見ることができず、いつの間にか外は明るくなっていた。それでもこの街に朝が訪れる時間を噛み締めた。真鶴のことはまたエッセイで書こうと思っているので日記ではこのくらいにしておく。

真鶴から西国分寺へ移動して友達と待ち合わせた。武蔵野一帯に10ルート設けられている「雑木林のみち」の1つである国分寺コースを歩くためだ。無類の散歩好きのため、知らない道は歩きたくなる。歩きながら話したいことがいくつもあったのに、つい見たことない景色に夢中になってしまって目の前で起きる出来事のことばかり話題にしてしまった。国分寺一帯は広大な自然で、どこを見回しても山がないし高い建物もあまりなかった。史跡を巡ってここにはこんなお寺があったのかと想像したり、林からのガサガサという物音に怯えたり、遠くにタコの遊具が見えて近づいたらただの赤い紅葉だったりした。「雑木林のみち」を無事歩き終え、国分寺の喫茶店「ほんやら洞」でチキンカレーを食べた。


チキンはホロホロでルーはスパイシーな美味しいカレーだった。辛い食べ物を食べると否応なしにだらだらと汗をかいてしまう。食後に珈琲、洋梨とチェリーのパウンドケーキ、チーズケーキも食べた。どちらも美味しかったが体格の良い人の親指くらいの大きさのケーキだった。お店を出るとすぐ近くに古本屋があり、入ってみると海外の絵本が豊富で見応えがあった。ぬいぐるみ作りに関する洋書がとても可愛かったので買うか悩んだがやめた。国分寺駅から中央線に乗り、自分は阿佐ヶ谷へ行くために友達とは途中で別れた。移転してから初のポポタムへ。

中田いくみさんの展示を見て、以前から気になっていた韓国の作家ビョン・ヨングンの『バードウォッチャー』を購入した。とても良い作品で手にすることができて嬉しい。


本当は同じく韓国のイラストレーター5DOCKの作品集も欲しかったが売り切れとのことで肩を落としながら店を後にした。インスタで見かけて気になっていたので残念。絶対良い本だろうなと謎の確信があるのでいつか手に入れたい。
阿佐ヶ谷から高円寺までぶらぶらと歩いた。奇しくも今期夢中になって観ていた『ひらやすみ』と『じゃあ、あんたが作ってみろよ』の聖地巡礼にもなった。神保町へ移動していくつか古本屋を見て回り、チェーホフの短編集を購入した。良い時間になったので神保町視聴室での『柴田聡子の神保町ひとりぼっち』へ。

12月ということもあって「サイレント・ホーリー・マッドネス・オールナイト」で始まるギターとピアノの弾き語りの2時間で、最後は毎年恒例のマライア・キャリー「恋人たちのクリスマス」で締め括られた。神保町ひとりぼっちは運良くもう4回ほど参加しているがこんな贅沢な時間があっていいのかよと毎回思う。外に出ると雨がぽつぽつ降っていたが今日1日の充実具合にそんなの気にならなかった。
12月14日(日)
連日歩き回った疲れでホテルのチェックアウトぎりぎりまで寝てしまった。一旦昨日撮ったフィルムを現像に出して、TABFに行くか悩んだが結局三軒茶屋のシアタートラムで劇団普通『季節』を観た。

ある秋の季節に集まった親戚の集まりを描いた一幕劇で、大きな出来事は何も起きないのにずっと面白かった。誰もが経験する親戚とのやり取りや会話の噛み合わなさなどがただのあるあるで終わらずに、現代の社会の構造そのものへの眼差しにもなっていて時に怖さもあった。なにより、なんでもない会話を現実のものとして本当にそこに「在る」かのように立ち上がらせる演劇としての凄みがあった。初めて劇団普通の作品を観たがこれからも観続けたい。
現像されたフィルムのデータを受け取り、16時新宿発の特急に乗って帰路についた。写真は良い感じに撮れていた。







電車の中で今回の真鶴旅行の文章を書き進めた。昨日神保町で買ったチェーホフの『子どもたち・曠野』を読んだのだが「学生」という短編があまりにも素晴らしかった。1900年前の聖書の出来事を神学校の学生から聞いた2人の女性が焚き火に当たりながら泣くという内容なのだが、ロシアの荒涼とした景色で描かれる現在と過去の接続に深く感銘を受けた。
ワシリーサがあんなふうに泣き出し、娘があんなふうにどきまぎしたところをみると、たったいま自分が話して聞かせた、1900年むかしにあったことが、現代のこの2人の女、そしてたぶん、荒涼とした村に、彼自身に、すべての人に、なんらかのかかわりがあるのは明らかだった。老婆が泣き出したのは彼の話ぶりが感動的だったからではなく、ペテロが彼女に身近なものだったからだろう。彼女がペテロの心に起きたことに身も心も引かれたからだろう。
すると喜びが急に胸に込み上げてきたので、彼は息つくためにしばらく立ち止まったくらいだった。過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ、一方の端に触れたら、他の端が揺らいだのだ、という気がした。
やがて彼は渡し舟で川を渡って、それから山へと登り、生まれた村や、西の方、寒々とした真っ赤な夕映えが細い筋となって光っているあたりを眺めたとき、昔その園や祭司長の中庭で人間生活を導いた真理と美が、連綿として今日まで続いて、それらが絶えず、人間生活の、総じて地上の主要なものを形づくっているらしい、ということについて考えた。すると、若さと、健康と、力との感覚が、そして幸福の、得体の知れない不思議な幸福の言うには言われぬ甘い期待が、次第に彼をとらえて、この人生が、魅惑的な、奇跡的な、そして高尚な意味に満ち満ちたものに思われてきた。
