記録

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ささやかな夏休み

先日、ささやかな夏休みがあったので大阪と京都へ行ってきた。行こうと思ったきっかけは、大阪の本屋「葉ね文庫」さんに自分の本が置かれていることと、もう一つはちょうど大阪で『わたしの星』が上演されていたからだ。

小旅行の当日は、朝7時の夜勤明けにそのまま東京駅へ向かい、新幹線に乗った。夜勤明けで寝ていないため電車の中で眠れるかと思ったがほとんど眠れず大阪へ着いてしまった。まず、西田辺にあるかき氷屋さんへ行った。「カリン」というお店で、前日に慌てて買った雑誌SAVYに載っていて美味しそうだったので向かったのだ。桃のかき氷を食べた。パフェのように桃がたくさん乗っていて美味しかった。このお店にいた、つむぎちゃんという2歳の女の子がとても可愛かった。店主の娘さんらしい。すぐ近くにあった、ホホホ座西田辺店へも行った。古本を何冊か買い、周辺をぶらぶらした。生活感のある古い建物が多かった。

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偶然、また古本屋を見かけ、入ってみると店主らしき人からビール飲みますか?と聞かれ、てっきり買わされるのかと思い断ったら、お中元でたくさんもらっちゃってさ、持ってってよと手渡された。そもそも自分はお酒をまったく飲めないのだが、なんだかその気のよさにすんなりと受けとってしまった。その後、中崎町にある「葉ね文庫」へ行った。店内は、決して広いとは言えないがとても多くの人で賑わっていて、それぞれの人がそれぞれの本を手に取り読んでいてとてもよい雰囲気だった。詩歌が多くを占める書店がこれだけ賑わっていることは、なにかの希望のようであった。そして、ついに、本屋に並ぶ自分の本とご対面である。

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もう素直にとても嬉しかった。店内を見て回り、欲しかった本を手に取って店主の池上さんに話しかけた。こういう時、本当に緊張してしまうのだけれど、とても柔らかい雰囲気の方で、すんなりとお話しすることができた。店内には短冊が飾られていて、お客さんが自由に短歌を書いているようだった。よかったら書いていってくださいと言われたが、とっさに何かをする能力が著しく欠けているので、凡庸な宣伝文句を書いた。偶然にも、岡野大嗣さんの隣に飾られることになった。岡野さんが僕の本を推薦してくださったおかげで、葉ね文庫での取り扱いが始まったのでなんだか嬉しかった。

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それにしても、本当に良い雰囲気の本屋さんで、この空間に置いてもらえていることが光栄でしかたなかった。ここで買った歌集、山階基『風にあたる』がもう本当に素晴らしかった。過剰さのないところが好きだ。

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葉ね文庫を後にして、今回の目的の2つ目である柴幸男『わたしの星』を観に読売テレビ10hallへ行った。その道中、御堂筋線の大好きなホームに出会えた。電灯がシャンデリアみたいになっている。

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肝心の『わたしの星』は、柴さんがそれぞれの土地の高校生たちと作り上げる作品で、2年前に三鷹で上演された際に観に行っている。今回は、大筋は同じだが内容が変わっていた。なにより、関西の高校生たちなので、言葉が関西弁なのがとても良かった。おそらく標準語で書かれていたであろうテキストが関西弁で発されることにより、彼女たちがそこで今生きていることを揺るぎないものにしていた。前説と後説も高校生スタッフが行っていたのだが、その子が自分のブログを読んでくれていて本も買ってくれている子だった。ツイッターでなんとなくその子がスタッフをやっていることは知っていたのだが、前説と後説で姿を見ることになるとは。とてもしっかりしていて、ああ頑張っているなあとそのことに感動してしまった。とにかく、色々なことを含めて大阪まで『わたしの星』を観に行って本当に良かった。

夜は、駅に入っているヤム邸でカレーを食べた。ヤム邸はやっぱり美味しい。駅中にこんな美味しいカレー屋さんがあるなんて最高だ。東京では下北まで行かないとヤム邸のカレーを口にすることはできない。京都にホテルをとっていたので、京都まで移動して倒れるようにして眠った。

翌日は、イノダコーヒー本店へ行きレモンパイを食べた。もはやこのパターンが京都でのお決まりになっている。京都芸術センターで展示を見た後に、再び大阪へ向かった。まずは、話題の「toi books」へ。簡単にぐるっと見回せるほどの店内ながら、まるで自分の本棚を見ているのではないかと思うほどの好きな本ばかりが揃っていた。こだまさんや、木下さん岡野さん、友田とんさんなどお会いしたことのある方の本が並び、居心地が良かった。本を買い、お店を後にして「餅匠しずく」で見た目が美しい上にとびっきり美味しい和菓子を食べた。和菓子に付いてきた冷たいほうじ茶もとても美味しかった。その後は、black birdbooksへ行った。そこでは、小西彩水さんの展示「それじゃ顔がわからないように」が開催されていた。小西さんの漫画は、最高に面白くて大好きだ。作品集の『Ayami Konishi』は、端正な装丁とは裏腹の内容に、初めて読んだときはやられてしまった。

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そして、今回の展示でのグッズのTシャツも手に入れた。

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仕事へ行く時に着ていくなど、もうすでに愛用している。blackbird booksはずっと行きたかった書店だったので、やっと訪れることができた。お店のある場所がとにかく良かった。周辺の写真を撮ったりもした。

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大阪の市内から少し離れた緑の多い場所に本屋があるのが素敵だ。

blackbird booksを後にして向かったのは、万博記念公園だ。ずっと念願だった、太陽の塔の内部の見学をした。1階のみ撮影可だったのであまり写真はないのだけれど、こんな感じだった。

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中心を貫くこの作品も凄いのだけれど、太陽の塔の腕の部分に感動というか圧倒されてしまった。あの未来感は、ぜひ本物を見てほしい。しかも、腕が通路になっていたなんて知らなかった。宇宙空間のどこかであるかのようだった。太陽の塔を出るともう夕方で、大好きな国立民族学博物館は閉まっていたので写真を撮ったりして帰ることにした。

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旅行の最終日は、京都の書店を巡るなどした。誠光社、恵文社、アローントコ、メリーゴーランド京都など、色々な場所へ行った。どこの本屋へ行っても欲しい本がそれぞれにあり、帰りは荷物が大変なことになった。美味しいものもたくさん食べたり、お寺に行くなどもしたが今回は割愛。帰りの新幹線は、高い駅弁を買ってお腹を満たし、幸福のまま家に帰ってきた。

自分の本が置かれているのを見に行くということと、演劇を観に行くことを発端に小さな夏休みを過ごしたが、思わず様々な場所を訪れることができた。関西は、良い書店が本当に多い。今回書店を巡った中では、葉ね文庫の印象がとても強い。もちろん、本を置いてくださっているというひいき目もあるかもしれないが、あの空間にはその場所やそこにある本が好きな人が集まっているという雰囲気があった。広くはない店内の、思い思いの場所に座り、お客さんが本を読んでいる姿が忘れられない。

どうでもいい生活の断片たち

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蒸し暑くなるひとつ手前の朝5時に白い毛の猫を見た。白い毛は、朝日を浴びてまるで自ら発光しているようだった。猫は、自分が発光していることなど露知らず、まだ熱くならないコンクリートの上にでっぷりと座り込んで眠っていた。

最近は、更新が滞っている。書くことがない。いや、日々日常は変わり続けているが、それでも書くことがないのだ。ひねり出して書こうとすると、見上げた空に浮かんでいた雲が犬みたいな形で思わず写真を撮ったみたいなことしかない。もういいか。そんなことばかりを書いていく。この前、道を歩いていたら、もう何度も歩いている道なのに、見たことのない看板が目に入った。その看板はもう錆びついていて、要するに、かなり前からそこにあったわけだがまったく目に入ったことがなかった。これは、なにかの例え話のようでなんの例え話でもない、ただ実際にあったことだ。

他には、仕事の休憩中にこの暑さのなかセミの鳴き声がうるさい公園のベンチに座っていたら、リードに繋がれていない犬が飼い主の後ろをとぼとぼと歩いて前を通り過ぎようとしていた。すると、ふと犬は立ち止まり、木を見上げた。セミの鳴き声を聞いているようだった。僕も一緒に見上げた。しばらく犬は上を向いたままだったが、我に返ったように飼い主のほうへ小走りで駆けて行った。

最近になってようやくハンカチを持ち歩くようになった。25年の人生にして新たな習慣を作る努力をしている。信号待ちをしている時にポケットからハンカチを取り出して汗を拭く瞬間なんかは、ひとつ人としての位が上がったような気さえしている。手のひらで汗を拭っていた過去の自分とはおさらばだ。

毎日本当に暑いので、ぐったりと家でバラエティ番組を見ている。やっぱり『相席食堂』はずっと面白くって、サンコンが「イッコンニコンタンコン」と言っているのにゲラゲラ笑ったりしている。定番ギャグの本人による言い間違えが面白いというのは発見で、いくつか前の回でスギちゃんの「ワイルドだろう」が「ワールドウォー」に聞こえたのも本当に笑った。ラジオも相変わらずたくさん聞いていて、最近面白かったなあと思ったのは、おぎやはぎのメガネびいきで脱毛ワックスを気持ち悪がる矢作とそれに触れず自分の話を進める小木のくだりがたまらなかった。やっぱり、ズレというか同時多発的に何かが起きている現象がたまらなく好きだし面白いと思うのだ。

最近は、お昼に王将ばかり行っている。定食を頼むんじゃなくて、一品料理プラスご飯という組み合わせでメニューの端から注文している。これに関しては特に書くことはなくって毎回ああ美味しいなあと思いながら食べてている。

こんな感じでもう生活にあったことを断片的に書くことしかできない。ちなみに、犬に見えた雲の写真はこれだ。もはや今見返すと、どれが犬に見えたのか自分でもわからない。

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晴れた日

久しぶりに晴れた日が続き、青空を見ることができている。あれだけ曇天模様が続いた後だと、晴れているただそのことが嬉しくてたまらない。じっとりとした暑さには、そのうちきっと嫌気がさすだろうけれど、今はその暑さにさえも、夏の到来を感じわくわくする。晴れた日に洗濯をする気持ち良さとか、窓の外に浮かぶ大きな雲が、早送りのように空を流れていくのを眺める瞬間は、今だけしか味わえないような、ぼんやりとした生きている心地を感じさせる。久しぶりに晴れた日は、カメラを持って散歩をした。空が、これでもかというほどに青く美しかった。

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加工をしたような青空で、偽物のようだ。あまりにも美しいものを見ると、偽物みたいだと思ってしまう。地元に帰ると、とても美しく日本アルプスの山々が見える。連なる山脈と雪化粧のその風景を見ると、いつも、ハリボテみたいだと思う。目の前に広がる山脈がバタンと向こう側に倒れそうな気がするのだ。どうして偽物みたいに思うのだろうと考えた時に、自分の中の想像の美しさと現実の美しさが合致した時に偽物だと思うことに気がついた。普通だったら、想像を下回ったときに偽物だと思うのだろうが、なぜか想像と現実が合致したときに偽物だと思ってしまう。ある種、想像の美しさはテンプレートのようなもので、だから現実と合致した時にその美しさは蔓延したもののように思えてしまうのかもしれない。唯一無二の美しさではないのだ。唯一無二の想像を裏切るような美しさに出会うことはなかなかないが、前職の仕事がとても辛かったとき、夕暮れ時のなんでもない路地がとても美しく泣きそうになったことがあった。あの日見た、路地が美しいという感覚は、きっとその時かぎりのもので、これまでもこれからも類型化されない。もちろん、青空は美しいし、誰もが美しいと思うものを美しいと思ってもいい。けれども、その瞬間にしか立ち上がらなかった自分だけの中にある美しさをずっと抱きしめていきたいし、また別のそんな瞬間に出会えることを信じている。たかが晴れた日のことで、長々とこんなことを書いてしまった。でもやっぱり、晴れるって嬉しいのだ。

最近は何があっただろうかと考えると、随分前になってしまうのだが、TABFことTOKYO ART BOOK FAIRに参加した。参加したというか、ナナロク社のブースに本を置いてもらい、手売りと店番をしていた。本を買ってくれる人やサインを求められたりすると、どうしようもないほどに恥ずかしくなってしまう。けれども、付箋をたくさん貼ってくれている人や、線を引いてくれている人、ここがよかったと伝えてくれる人に直接出会えることは、とても嬉しい。恐れ多いが自分のなんてことない生活が誰かの支えになることもあるのだと知ることができる。お昼を食べに会場の外へ出たとき、ふと見かけた風景がどこかで観た台湾映画のワンシーンのようだった。

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この少年の感じが、『ヤンヤン 夏の想い出』みたいだ。この日は、歌人の木下龍也さんとずっと一緒にいてとても楽しかった。

最近観に行ったものは、五反田団の『偉大なる生活の冒険』だ。とても素晴らしかった。一見意味のない、だらだらとした会話の積み重ねや、その会話のふとした瞬間に見える過去、じっとりとした今を生きている感覚。そのどれもがとても良かった。 前田さんと玉田さんが並んで座っている姿は、なぜだかたまらないものがあった。あとは、しばらく前だが松井周演出の『ビビを見た!』も観た。ひとつひとつのシーンが絵になるものばかりで、観ていて楽しかった。当たり前なのだが、サンプルっぽいなあと思った。最近読んだものは長嶋有の句集『春のお辞儀』で、とても良かった。短歌よりもさらに短い文字数の中で瞬間を捉えていて、感嘆した。映画は、『天気の子』をまだ観れていないので早く観たい今日この頃って感じです。

最後に、大阪にある「葉ね文庫」さんという本屋さんで自分の2冊の本の取り扱いが始まりました。今はもう通販の在庫はないので、大阪近辺にお住まいの方はぜひ。本屋さんに自分の本が並んでいるなんて、嘘みたいだ。嬉しい。

 

お祭りの音

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さっきまで窓の外からは、お祭りの音が聞こえていた。お祭りの音と自分で書きながら、お祭りの音ってなんだろうと思う。スピーカーから流れる出囃子のような音、子どもの声、出店に引きこもうとする大人のがなり、人と人の間を縫い走る子どもの足音。あらゆる音が混ざり合い、お祭りの音となる。うるさいと思ってしまう感情と、わずかな高揚感が同居する。今日一日を振り返る。

トイ・ストーリー4 』を観に行った。トイストーリーシリーズは、小さい頃から狂ったように観ていたので思い入れが深い。おそらく、1は劇場では観ていなくて、ビデオで何回も何回も観ていた。2と3は映画館で観た。3は高校生の時で、どこの映画館であったか、誰と観に行ったかも鮮明に覚えている。地元にできたシネコンで、部活の友達と観に行った。この時、初めて3Dメガネをかけた。とても泣いて、3Dメガネがあってよかったと心から思った。そして今回の4である。勝手に感動するつもりで観に行ったのだが、涙を流す感動なんていう分かりやすいものではなく、もっと深いところに落とし所を持ってきていた。トイ・ストーリーのこれまでの価値観として、子どもに所有されることが絶対的であり持ち主の元へ帰ることが物語の核となっていた。今回は、その構造自体が揺らぎ、誰にも所有されないという自由を獲得する話となっている。獲得というよりも、「知る」と表現したほうがいいのかもしれない。新たな価値観を知り、解放される。とても現代的であり、ピクサーもといディズニーアニメの時代を捉える力に毎度感心する。しかし、その新たな価値観の一辺倒にならず、あくまでも選択肢として描き、他の価値観も平等に肯定して描いていることが素晴らしい。そして、これまでの3作と比べ、どこかしっとりとした雰囲気が常にある。アンティークショップが主な舞台であることとか、移動遊園地の夜の明かりがそんな雰囲気を漂わせていた。ツイッターで感想などを見ていると、これまでのトイストーリーの価値観の否定だとかで批判している人を多く見かけるが、作中でウッディは悩み葛藤している。人は、生きていれば変わるし、これはフィクションであるわけだけれども、きっと彼の人生はこれからも続いていくのである。どうしたって、変わるということを否定したくはない。

映画を観た後は、髪を切りに行った。美容師と暑いですねとか、夏休みはいつですかとか、他愛をもない話をした。この前聞いた話を、あたかも初めて聞いたふりもした。それから、選挙に行って、家に帰ってきて、洗濯機を回して、コインランドリーへ行った。そして、窓の外からはお祭りの音が聞こえてきたわけだ。

これが今日の一日だ。映画を観て選挙に行って髪を切って洗濯をする。あまりにもなんてことない日だ。でも、これだけあれば他に必要なものはないと思えたりもする。

ずっと平行して

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日々、もう少し頑張ろうと思える出来事と辛くて行き場のない出来事が平行している。辛くてどうしようもない出来事は一点で、もう少し頑張ろうと思える出来事はまばらにある。しかし、そのただ一点の辛いことがあまりにも大きく、いくつかあったはずの頑張ろうと思える出来事がどこかへ追いやられてしまいそうだ。

辛い出来事になんとか拮抗するために、日々の中の大きな嬉しかったことと小さな嬉しかったことを書いていく。

7月6日に高円寺で開催されていた『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』展のトークゲストとして歌人の木下龍也さんと岡野大嗣さんとお話をした。この日に配布する用に、来場者特典として一週間半ほど毎日日記を書いていた。久しぶりに日ごとに区切った日記を書いて、またこれからあんな感じの日記に戻そうかなあなんて思った。トークは、案の定ぼくはほとんど話すことができなかった。でも、自分が書いた日記を目の前で多くの人が読んでいる光景は忘れられない。

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とても恥ずかしかったし、でも嬉しかった。誰のなんのためにもならない日記だけど、これからも書いていこうと思えた。本も、とてもたくさん売れた。サインも何回も書いた。ずっとずっと、自分なんかがという気持ちで一杯だったが、静岡から来ましたとか、握手を求められたりだとかすると、やっぱり嬉しくなってしまう。打ち上げも、とても楽しかった。混み合った居酒屋で岡野さんが、三輪くんに聞いて欲しい曲があるんだと、ヘッドフォンを貸しくれたこととか、木下さんがうなぎの肝を美味しくないと言っていたこととか、ナナロク社の村井さんがみんなを引き合わせられて嬉しいと喜んでいたこととか全部全部忘れない。

これが大きな嬉しかった出来事で、小さな嬉しかった出来事を細々書いていく。この前、道を歩いていたら、たくさんのどこでもドアを見つけた。もしくは、モンスターズインクの扉だ。全ての扉が別々のどこかに繋がっていたらいいのに。

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あとは、深夜に職場から見えた東京タワーがロードオブザリングサウロンの目みたいだった。ぼんやりと空にうつる感じが不気味だった。

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これらが僕の小さな嬉しかったというか胸が高鳴った瞬間だ。馬鹿みたいだけど、ふいに見かけた自分だけのこういう瞬間の高鳴りを忘れたくない。カメラロールにあるこんな小さな瞬間の積み重ねが辛いことをほんのわずかに忘れさせてくれる。

嬉しいことをもうひとつ。今月の12日から15日まで東京都現代美術館で開催される東京アートブックフェアのナナロク社ブースにて僕の『やがてぬるい季節は』と『日々はすべて穏やかな一日に』が販売されます。手元にあるわずかな在庫を全て預けました。『玄関』展で配布した特別日記もこの日はお付けする予定です。あのお洒落で居心地の悪くなってしまうTABFに自分の本が置かれる日がくるとは。ナナロク社には学生時代と前職の仕事を辞めてから、さらに今に至るまで本当にお世話になりっぱなしだ。感謝しかない。14日の日曜は、ブースでお手伝いをしながら本の手売りをしているのでもしよかったらお越しください。村井さんが、サイン会をしよう!と言っていたので本をお持ちの方にはサインをします。こんな誰でもない人のサインなんていらないと思いますが。とにかく、ナナロク社の本は良い本しかないので、ナナロク社の本を買いにきてください。

こうやって嬉しかった出来事を書いていたらなんとかまだやっていけそうな気になってきた。どうにかこうにか毎日頑張ろう。

 

辿り着く

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今は、朝の6時過ぎで、夜勤帰りの電車の中にいる。片手には、コンビニで買った炭酸水。無性に喉が渇く。深夜1時に、公園のベンチでカツ丼を食べたからだろうか。その時は、雨がぽつぽつと降っていたが、今は止んでいて、外の空気は、生ぬるく湿っている。

突然だが、「好き」という気持ちは巡り巡ってたどり着くことがある。昨日、ロロの三浦さんがこんなツイートをしてくれた。

 尊敬する三浦さんが自分の書いたものを読んでくれたこと、そして感想も書いてくれたこと、そのことが本当に嬉しくどうにかなってしまいそうだった。三浦さんが読んでくださっている『やがてぬるい季節は』には、ロロのことをたくさん書いている。とにかく僕はロロが好きなのだ。2015年からの記録なので、あのブログを書いている当時の自分は、まさか尊敬している人のもとに言葉が届くとは思っていない。ロロを知ったのは、ヒコさんのブログからだった。あの当時は、ヒコさんは憧れで遠い存在で、いや、今もその気持ちは変わらないのだけれど、でも今ではよく遊んでもらっていて、数年前の自分が聞いたらきっと嘘だと言う。三浦さんが、「記録の積み重ねが記憶を作っていく」と書いてくれていて、『父母姉僕弟君』を思い出した。

今は、もうなくなっちゃったかもしれないけど、かつてほんとにあって、そのかつてが、今とこれからに繋がりますようにって祈りながら、俺はこうやって、しゃべり続けてて、俺がいつか忘れてしまっても、どこかにそのかつてが生き残りますようにって、俺の知らないところでもたくさんのかつてが生き残りますようにって、祈って祈って、描写して描写して描写して描写して……

僕が日記を書いているのは、単純に、忘れたくないからだ。このブログを開設した日につけたブログ名が「忘れないように」だった。しかし、なんだか恥ずかしくなり、すぐに「記録」に変えた。日記を書き始めて、毎日同じような日もあるし、同じようで少し違う日もある。日常こそ素晴らしいのだとか、そこに美しさを見出したいとかではなくて、単純にただ日々のことを記録しているだけだ。けれども、場所や名前などの固有名詞を多く書いているのは、そこに個人の記憶が張り付いていると日記を書くにつれて思うようになったからだ。ヒコさんが、『父母姉僕弟君』について、こう書いている。

どんな方法だっていい。文章にしたためるでもいいし、誰かに語るでもいいし、歌に、絵に、写真に、映画に、三浦直之のように演劇に託す人もいるだろう。とにかく何かしらの方法で、想いや感情を保存する。もしかしたら、それは大袈裟に美化され、事実とはかけ離れたものになるのかもしれない。しかし、それらはいつしか”物語”と呼ばれ、遠い見知らぬ誰かに届くかもしれない。

 三浦さんがツイートで、「物語の登場人物になれた気がして嬉しいです」と書いてくださっていた。僕のなんてことない好きなものについて書いた記録が、本という形になったことによって、いつしか物語になっていた。いや、物語なんて大層なものではないけれど、好きという想いが巡り巡ってたしかに遠い誰かに届いたのだ。

先日、そんなロロの『はなればなれたち』を観た。お芝居を観ながら、終始、ああロロだなあと思っていた。向井川淋しいが描いた戯曲は、淋しいを想い続けるすい中に語られることによって「らしい」が隠蔽され、物語となり、私たちに届く。それは、事実とはかけ離れたものかもしれないが、物語を作り上げることによって、はなればなれは、「はなればなれたち」になる。希望だと思った。『わが星』の大胆な引用にもいたく感動した。

 好きという気持ちは巡り巡ってどこかへ辿り着くと書いたが、よく考えてみれば一方的に渡しているだけだ。三浦さんも、ヒコさんも、佐久間宣行さんも、坂元裕二さんも。けれども、どこの誰かも分からない自分の好きなものについて書いた記録に対して、お渡ししたみなさん全員が反応をくださった。数年前に書いた好きという気持ちは、どんなに時間がかかっても形を変えてたどり着いた。ただ今は、そのことが嬉しい。

 

それでも、美しい

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生きていると、思わぬ出来事が起こる。6月25日から7月7日まで高円寺で『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』展が開催されるのだが、7月6日のトークゲストに呼ばれたのだ。歌人の岡野大嗣さんと木下龍也さんによる歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』は、以前にもここで書いたことがあるが、とても好きな歌集だ。そんなお2人と人前に出て話すなど緊張して今から吐いてしまいそうだ。僕にはきっとトークなどできなくて、うなずくとか相槌を打っている自分しか想像できない。それでもなんとか話せるように、準備をしていくつもりです。展示の詳細はこちらです。そうそうたる名前が並ぶ中に、誰だお前みたいな僕がいます。

『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』展 6/25~7/7(※月曜定休)|ナナロク社|note

 

ここ最近は、朝8時に出勤して17時に上がるみたいな日々で、また来週からは夜勤が続くのだけれど、とりあえず今週は色々と面白いものを観れた。ナカゴー×神保町花月『予言者たち』は、よしもととのコラボでどうなるかと思っていたが安定のナカゴーでたくさん笑った。どうしたって、いつものしつこさみたいなものはないので、物足りなさを感じなくはないが、個人的には東葛スポーツの金山さんを見れたので満足した。金山さんは、ただ普通に話すだけでおかしみと哀愁がある。『ていで』の時に、メダルゲームの説明を延々とするのが本当に好きだった。この日は、会場が神保町だったので丸香でうどんを食べた。久しぶりに来たのだけれど相変わらず美味しかった。この値段でこの美味しさなんて不安になってくる。

ナカゴーを観た次の日は、『柴田聡子の神保町ひとりぼっち』へ。先月も聴きにいったばかりだが、あの狭い空間で柴田さんの歌を聴ける贅沢さよ。やはり、「涙」は飛び抜けて好きだ。会場で2人も知り合いに遭遇した。この日も神保町だったので、再び丸香でうどんを食べた。本当に美味しい。

今週のどこかに、横浪修写真展『PRIMAL』を見に行った。

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子どもたちの、一体自分はなにをされているのだろうかという困惑と怒りのような表情は永遠に見ていることができた。繕うことのない、生の感情としての顔をそのまま捉えていた。

今日は、モダンスイマーズ『ビューティフルワールド』を観に行った。もう本当に素晴らしかった。傑作だ。引きこもりの中年と、夫からモラハラを受ける主婦が出会って…という物語なのだが、終盤の展開に完全にやられてしまった。社会は、世の中は、世界は、想像以上に汚れているし美しくないかもしれない。日々、辛いことや嫌なこともある。それでも、だからこそ、世界は美しいと信じて生きていこうと思うことができた。

先日、ポストに手紙が届いていた。僕の本を買ってくれた方からだった。便箋3枚に、ぎっしりと文字が埋め尽くされていた。その中に、「救われた」という言葉があった。時々、ブログのコメントやツイッターのDMで、同じようなことを言ってくれる人がいる。僕が誰かを救うなんて滅相もないと思うのと同時に、自分の個人的な生活を書いたものが、誰かのためになったのだと思うと不思議な気持ちで、嬉しくもある。けれども、誰かのためになるとか関係なく、これからも粛々と日々のことを書いていこうと思います。散らかった部屋で一人コーラを飲みながら、ポテトチップスを食べながら。