記録

記録

やがてぬるい季節は

このブログを始めて3年が過ぎ、記事数は157を超えた。当初は、ポップカルチャーを扱うカッコ良い文章を書きたいと思って始めたが、そんな才能は僕に無く、徐々に形を変え、最近では個人的なことにまつわるエッセイのようなものになってしまっている。振り返ってみると、誰かにとっては本当にどうでもいいことばかりを書いてきた。ためになることは一つもない。あれを観た、これを聴いた、それを読んだ、美味しかった、楽しかったなど、生活の中の些細なことの連なりばかりだ。そんな生活ができていたのは、大学時代という多分に時間のある時期だったからで、なんとなく気持ちにも余裕があったからだ。今は、ほとんど無職のようなもので、時間はあるが気持ちもお金も余裕はない。あの時期は、なんと甘くぬるい限られた時だったのだろうかと、今になって思う。そんな大学時代から社会人になるまでの間にここに書いた日記を、過去の清算の意味も込めて『やがてぬるい季節は』と題して一冊にまとめた。

f:id:miwa19940524:20190224154227j:plain

旅行記などは省き、2015年から始まり、2018年の仕事を辞めるギリギリまでの日記を載せている。始めと終わりに文章を加え、巻末に「好きなことにまつわるいくつかの事」を書いた。これは、文章に出てきたワードを100個ほど挙げ、その一つ一つに個人的なコメントを寄せた。思い入れの深さによって、1行だけのものもあれば、数行にわたるものもある。こんなアクセス数の少ないブログをまとめたものを一体だれが欲しがるのかと我ながらに思うが、ほんの少数だけ刷ったので、手にしたい方は下のリンクからお願いします。本当は多くの人に読まれたいです。3年ぶんの日記をまとめていて全てを読み返し、なに言ってんだこいつと思うこともあったが、面白いなと思うこともあったのでたくさんの人の手に渡って欲しいです。ここで無料で読めるものにお金を取るなんて申し訳ない気持ちしかないのだけれど、作るのに時間もお金をかかってしまったので値段をつけました。ぱらぱらとめくり、目についた箇所を読むというのはネットでは難しく、やはり本という形でしか成し得ないのではないかと思います。

以前、冊子を作ると宣言したものの、なかなかそのためだけに文章を書くことが出来ず、いくつか書いたもののボツにしてしまい、結局このような形になってしまいました。なんとなくこの本をまとめていて、作ることが楽しくなってきたので、また何か作ると思います。

今は、仕事を辞めてから書いたものをまとめている。新しく出来たらまたこちらでお知らせします。

とりあえず、今回制作した『やがてぬるい季節は』は下記から購入可能です。リンクから内容の詳細が分かると思います。どうぞよろしくお願い致します。

miwa261.stores.jp

生々しい生活

街は、様々な人の生活が折り重なってできているのだと意識する機会が度々ある。それは、すれ違った人々や、ファミレスでの会話、電車やバスの中など、ふとした瞬間に目の前の人のこれまでとこれからを想像する。ここ数日は、そのことを強く意識する日々が続いている。それはなぜか。食べ物の配達をしているからだ。そう、あのuber eatsの配達員をやっている。単純に週払いでお金が入るし、今のところ平均して1日に5000円以上は稼げる。時給換算だと1000円は超えるので目の前の生活をやり繰りするための仕事としては悪くない。注文が入ればひたすら自転車を漕ぎ、お店から注文者の家へと食べ物を運ぶ。幸いにも自転車に乗ることは好きなため、まったく苦痛ではない。配達場所はもちろん無作為なので、行ったことのない場所へ自分の意思とは関係なく誘われる。配達ってそういうことなのだろうけど、なんだか面白い。さらに、注文が入らない間は暇なので知らない土地で写真も撮ることができる。

食べ物を届ける先は、様々だ。一軒家もあれば、高級マンションもあるし、都営住宅もある。そこに住む人々も皆もちろん違う。わずかに開いた扉の隙間からテレビの音が漏れてくることもあれば、部屋の中が真っ暗なこともある。バスタオルだけの男の人もいた。配達していると、注文者は女性が多いことに気づく。デリバリーを頼む人は勝手に男の人が多いイメージを持っていたのだが、uber eatsはチェーンではない様々なお店が揃っているため、女性でも頼む人が多いのだろうか。さらに女性の方が、外へご飯を食べに出ることのハードルが高いことも関係しているのではないかとも思った。もちろん、個人によって異なるが、お化粧であったり服装であったりと、男の人よりも外出に気を遣うのかもしれない。そのストレスに比べたら数百円の配送料などなんともないのかと勝手に想像している。男性だから女性だからみたいな考え方は極力しないようにしているので勝手に決めつけんなよという人は怒ってください。とにかく、一瞬だけ開く様々な扉の先に生活を垣間見る瞬間が度々ある。普段自転車に乗るときは、流れていく風景や家々の明かりに感慨深くなるが、個人の家から家へと東京の中を自転車で走ると、生々しい生活を感じる。街は、個人の生活がいびつに重なりあってできているのだと思わぬ角度から実感した。なんだかいつも生活とか人生とかそんな同じことばかり書いていて、本当はもっともっと色んなことを書けるようになりたい。
配達中、到底自分では住めないようなマンションから見えた風景で終わりにする。

f:id:miwa19940524:20190219002227j:plain

美味しいという記憶

最近は家にいることが多いため、ずっとラジオを聴いている。深夜ラジオはもはや10年ほど前から日常のルーティーンの中に組み込まれているが、ここ数ヶ月は午前中に放送されている『伊集院光とらじおと』をよく聴くようになった。そのラジオの中で毎週火曜に「俺の5つ星」というコーナーがある。そのコーナーがとても好きだ。内容は、リスナーの思い出の中にある、今はどうなっているかわからないお店の現在を、場所や味といったわずかな情報を元に、他のリスナーがこのお店では?と見つけ出すコーナーだ。投稿されるほとんどが、何十年前のお店であり、インターネットでは引っかからないものだ。このコーナーの面白さは、リスナーから寄せられる複数の情報を元にお店を絞り込んでいく謎解きの要素と、記憶の不確かさにある。お店を探して欲しい投稿者からの情報は、記憶違いのことが多々ある。たとえば、「ベッセ」というアイスを探している人の投稿があった。リスナーから寄せられた情報によると本当のアイスの名前は特別製を意味する「べっせい」であったり、そのアイスを売っているお店の名前が「スガ」であるという情報が寄せられたが本当は「みふくや」というお店の名前だったこともあった。店主の名前がスガさんだったかららしい。僕がこのコーナーの好きなところは、このような記憶違いがありながらも、投稿者とリスナーの間には「美味しかった」という変わりようのない記憶が共有されていることだ。「美味しかった」の周りにある記憶は、個々人で異なるのだが、不変の「美味しかった」だけは確かにある。なんというか、そのことがとても尊く思えてしまう。あそこのお店美味しかったよね、と友人などと話すことは多くの人が経験している。そこにはおそらく固有の思い出が付随している。しかし、それと同時に、どこか知らない誰かと「美味しかった」を共有している可能性もあるのだと、「俺の5つ星」を聴いていていつも思う。だから、いつか僕が台湾で食べた名前の思い出せない食べ物も、それにまつわる記憶とは別の、「美味しかった」だけを共有している相手が無数にいるのだ。1人ラジオを聴きながらそんなことを想像する。とても当たり前だけれど、凄いことだ。

f:id:miwa19940524:20190216010204j:plain

他にも今週の爆笑問題のラジオがなかなか良かった話とか、他のラジオの話を色々と書きたいのだが今日はやめておく。演劇は最近だと、タカハ劇団『僕らの力で世界があと何回救えたか』とシベリア少女鉄道『いつかそのアレをキメるタイム』を観に行った。どちらも面白かった。かなり前だが範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』も観に行っていたのだが、そのことをここに書いていなかった気がする。また感想は機会があったら。あとは、Netflixの『ロシアンドール』も面白かった。1話30分なのでサクッと見れる。『伊集院光とらじおと』の「俺の5つ星」はネットに転がっているのでぜひ。

いつだって途中だから

劇場を出ると雪が降っていたことがある。それは2年前の2月9日にアゴラ劇場でペニノの『ダークマスター』を観た時だった。偶然にも、ちょうど2年後の2019年2月9日も、劇場を出ると雪が降っていた。東中野のビルの9階、街を見下ろせる場所でウンゲツィーファ『さなぎ』を観たのはそんな日だった。とても素晴らしい演劇だった。新年を迎えた人たちとまだ迎えていない人たちの話である。劇中には、いくつもの時間のずれがある。そのずれは、時差でもあるし、演劇がもたらすものでもある。そしてずれた時間は、演劇の力によって同居する。この作品を観終わってまず思ったのは、僕たちはいつだって何かの途中にいるのだということだった。それは、一方の場面がロードムービー的な側面を持ち、もう一方は新たな年を迎えようとしている家庭の場面であることに起因するし、さらには「さなぎ」というモチーフからも何かから何かへ変わる途中のイメージが想起される。そして、作者のフラットな視線がまなざす登場人物一人一人もまた、人生の途中にいる。人生を描くということはもちろん、そこには生と死がある。一方は産道を思わせる血の跡のついた洞窟の先で死と出会い、平行してもう一方は妊娠という新たな命の誕生が知らされる。しかし、ここでの生と死は対比というよりも連続したものであるように思った。さなぎは、成虫になる前に液体になるという。これは、死ではなく新たに生まれる途中の段階である。生と死は区切られず、もっと境界の曖昧なものであるのだ。こういった大きな枠組みをとりながらも、小さな個人のあらゆる途中が巧みに組み合わせられ、この作品は出来上がっている。また、劇中ではいくつもの選択が描かれる。飛ばないことを選んだ鳥やコウモリのこと。いくつもの幼稚園からどれか一つを選ぶこと。また、洞窟内のセリフで「違う道にすれば良かった」というものもある。さらに、子どもを作るかどうかの選択。そして、離婚の原因を聞かれた父の「いつの間にか僕はこんなとこまで来てて」というセリフ。人生とは選択の連続であり、僕たちは苦悩し何かを選びながら時には後悔し、それでも生きていくしかない。いつだって人生の途中にいて、これからも続いていくのだから。少なくとも彼ら彼女たちは飛ぶことを選んだし、同じ月や星座を見上げている。役者もみんなとても素晴らしかった。個人的に渡邊まな実さんの演技が好きなので見れて良かったし、役者が本業ではないミュージシャンの石指拓朗さんの演技も劇中に馴染んでいた。久しぶりにしっかりと演劇の感想を書いたのは、『さなぎ』という作品が今の自分とどこか繋がっていて響くものがあったからだ。

劇場を出ると雪が降っていて、いつもだったらすぐに家に帰りたくなってしまうのだがせっかく外に出たのだからと目黒まで移動して庭園美術館で『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』を見た。本来は異なる文脈にあるものが、いくつも組み合わさることによって新たな意味を作り上げるコラージュは、あらゆる創作に通じるものだと思っている。岡上淑子は、1950年から1956年のわずか6年しかコラージュ作品を制作していない。切り貼りされ、本来の文脈から解き放たれたいくつもの作品は、ハッと目を奪われるものばかりだった。雪のせいか展覧会はガラガラで、ゆっくりと好きなだけ見ることができた。

最後に最近読んだ漫画のことについて。『夫のちんぽが入らない』2巻と『やれたかも委員会』3巻、どちらとも素晴らしかった。おとちんは、こだまさんの原作が良いことはもちろん、ゴトウユキコさんの絵が本当に魅力的だ。1巻2巻ともに表紙の刹那的な瞬間も好きだ。やれたかも3巻は、試し読みでも話題になった最後の話がどうしようもなく苦しくて胸が痛くなった。ツイッターでこのエピソードを批判している人を見かけて、あの時の僕たちはどうやって生きていけばいいのだと泣きたくなった。高校生の時、自室のベッドの上で悶え苦しみながら読んだ『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を、部室で笑いながら読んでいる人を見てふつふつと怒りが湧いたのを思い出した。巻末の吉田貴司さんとこだまさんの対談も良かった。冒頭で書いたウンゲツィーファの話に繋げるわけではないが、やれたかも委員会も選択の話であるなと対談を読みながら思った。

f:id:miwa19940524:20190210193127j:plain

暖かい真夜中

とても暖かい日があった。その暖かさに気がついたのは深夜4時で、ゴミを出しに外へ出た時だった。気持ちの良い、ぼんやりとした暖かさで、なぜだかハワイを思い出した。先日、髪を切りに行ったら美容師さんに、行きたい国はありますか?と聞かれた。ハワイと答えていた。ハワイには、一度だけ行ったことがあって、とても気候が良かったのを覚えている。なんとなくハワイというとミーハーで、芸能人やお金のある人が行くイメージがあって敬遠していたのだが、好きになってしまう気持ちが分かった。あの空気の心地よさをもう一度味わいたい。

深夜4時にゴミを出しに外へ出たのは、なんとなく目が覚めてしまったからで、暖かさを味わってから布団に潜った。真夜中にあんなに暖かいのだから当たり前なのだけれど、その日の昼間は春のようであった。最近は寒くてめっきり散歩に行けていなかったので、この日を逃すまいと久しぶりに歩くことにした。ちょうどその日の午前中、『伊集院光とラジオと』を聴いていたら伊集院さんが散歩に行く前におにぎりを食べていたので真似をして、コンビニでおにぎりを買ってから歩き出した。自宅から北に向かって進む。しばらくすると神田川にぶつかる。そこから神田川沿いを歩く。右側には新宿のビル群。

f:id:miwa19940524:20190205190013j:plainf:id:miwa19940524:20190205190227j:plain

東中野駅を左手にさらに進むと、遠くにスタジアムとかにあるような大きなライトが見えてくる。なんだろうと思っていると、落合中央公園という場所だった。

f:id:miwa19940524:20190205190529j:plain

公園を通りすぎてしばらくすると、下落合駅にたどり着く。

f:id:miwa19940524:20190205190902j:plain

線路を渡り、神田川を離れ新目白通りへ出る。少し歩けば高田馬場だが、そこまではいかず七曲坂を登り、薬王院というお寺へ行く。意外に立派であったがこれといって面白いことはなく、再び来た道を戻る。今度は川沿いではなく住宅街を抜けていく。この辺りで正直もう疲れていて、電車に乗りたくなったがぐっと我慢。落合駅までたどり着くと、すぐ近くでもくもくと煙が上がっている。路地の奥で家が燃えていた。しっかりと赤い火が見えた。消防車と救急車が続々と集まってくる。あっという間に周囲は煙で覆われ、空からは灰と放水された水が霧状になって落ちてくる。

f:id:miwa19940524:20190206011845j:plainf:id:miwa19940524:20190206011909j:plain

人々は立ち止まりカメラを向け、周囲のマンションやビルからは不安そうに顔を覗かせている人がたくさんいた。電話で火事の様子を実況中継している人も何人もいた。下校途中の小学生は、はしゃいでいた。ほんの数分通りかかっただけだがあまりの煙に気持ち悪くなってしまい、東中野まで歩いて電車に乗ってしまった。服がとても煙臭くなっていた。まさか暖かい日の散歩の結末が火事との遭遇になるとは想像もしていなかった。後日調べてみると、死者もけが人も0であった。

転職サイトから企業へエントリーしまくっているのだが、ことごとく落ちている。毎日不安で仕方がない。所詮は散歩の途中で火事に遭遇し灰をかぶり煙に燻されるような人生なのだ。 

うるせえ!と僕は思ってしまう

いま目の前にあるのは、自分がどうするかの選択のみで、いや、そもそも人生はその連続なわけだけれども、誰かの人生に思いを馳せるみたいな余裕がなぜか自分の中にはある。1年半ほど前に、散歩をしながら道ゆく人の会話の断片をメモしたことがある。

miwa0524.hatenablog.com

この時は、盗み聞きすることそのものへの好奇心のようなものが先行し、断片から想像を巡らせていた。もちろん、断片から想像する楽しさはあるし、断片だからこそ愛おしいみたいなところもある。けれども、現在進行形の人生がその人の言葉によって綴られている文章は、会話の断片とはまた異なり直接的に胸をふるわせる。それは、知っている誰かではなくて知らない誰かの人生の方がより好ましい。最近では、この2つの文章を読み、ずっと忘れることができない。

anond.hatelabo.jp

gameboyz.hatenablog.com

どちらも感想は述べない。誰かの人生にとやかく言うなんてことはできないし、もし分かったようなことを言われたら、「うるせえ!」と僕は思ってしまう。
フィクションではあるが、1週間限定で公開されている『やれたかも委員会』のこのエピソードもまた誰かの人生だ。

note.mu

ブログにしろフィクションにしろ、どうしても話題になったものしか目に触れる機会がなく、本当は誰かの人生はもっともっとインターネットに溢れているはずで、僕はそれを読みたい。
きっと、このブログも誰にも読まれることのない誰かの人生の内の一つだ。自分の人生は自分のものであるが、他人にとっては誰かの人生である。そんな当たり前のことがとても不思議だ。

f:id:miwa19940524:20190202010726j:plain

Things So Faint But Real

高層ビルやマンションに夕日が当たり、まるで最初からそれが綺麗な橙色の建物だったのではないかと見間違えるような日がある。そういう美しい夕暮れを、人々が行き交うなかで立ち止まって見つめている人がいる。残念ながら僕はそんな人にはなれなくて、誰もいない線路沿いの道をゆっくりと歩きながら眺めることしかできない。

インフルエンザにかかり、しばらくダウンしていた。そのタイミングでアルバイトも週1になり、引きこもりに拍車がかかってしまった。ここ数日は、家から一歩も出ないこともざらにある。なにも起きない日々が続いている。とりあえず来月には生活費が底を尽きてしまうので、なにか単発のアルバイトを探さなければならない。
東京都写真美術館へ『小さいながらもたしかなこと』という展示を見に行った。今回展示されていた森栄喜さんの『Family Regained』は写真集を手にしていたので何度も見たことがあったのだが改めて大きな写真で見ると、その真っ赤な色味とそこに込められた意味により切実さが増す。ミヤギフトシさんの『Sight Seeing/感光』は、暗闇で長い露光時間をかけて撮影されたものなのだが、まるで本当にそこに人がいるかのような写真だった。リアルとはまた違う、しかしたしかに人のいる実感。
引きこもっている間に、アマゾンプライムで『宇宙よりも遠い場所』を一気に観た。とても素晴らしいアニメだった。あらすじは、女子高生が南極へ行く話なのだが、テンポの良さと青春物語としての面白さにあっという間に引き込まれる。これは「距離」を描いた作品だと思った。南極という遠い場所との距離であり、人と人との距離の話でもある。ロロのいつ高シリーズ同様に、「距離」は青春を描くにはもってこいなのだ。好きな場面はたくさんある。例えば、9話ラストでついに南極へたどり着き、報瀬が発した言葉。
ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!あんたたちが馬鹿にして鼻で笑っても私は信じた!絶対無理だって裏切られても私は諦めなかった!その結果がこれよ!どう、私は南極についた!ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!
南極へ着いた第一声が、感動ではなく「ざまあみろ」なのだ。他にも、11話で日向が高校を辞めるきっかけになった友達へ報瀬が言ったセリフも良い。
あなたたちそのままモヤモヤした気持ち引きずったまま生きていきなよ!人を傷つけて苦しめたんだよ!そのくらい抱えたまま生きていきなよ!それが人を傷つけた代償だよ!今さらなによ、ざけんなよ!
この断固として誰かを許さない態度に共感する。僕は大人になることができないので、許すことが正義であり素晴らしいみたいな風潮はどうしても受け入れることがない。今でもかつて向けられた悪意に「ざけんなよ!」と思っている。10話で、キマリが結月に友達とはどういう存在なのかスマホを見ながら話すシーンも良かった。
でも、なんとなくわかる。画面を見てるとね、ピッて読んだよってサインがついたり、なにか返ってきたり。すぐだったりちょっと時間が空いたり半日後だったり。それを見るたびになんとなくわかるんだ。ああいま学校なんだなあとか、寝てたんだなあとか、返事しようかちょっと迷ったのかなあとか。わかるんだよ、どんな顔してるか。変だよね。私にとって友達ってたぶんそんな感じ。全然はっきりしてないんだけどさ、でもたぶんそんな感じ。
とてもストレートなセリフだ。しかし、そこにいない誰かのことを想像するのはやはり特別なことなのだ。良かった場面を上げればキリがないのだが、やはり12話は特別に素晴らしくそして辛い。観て確かめてほしい。とにかく全話通して、まったく飽きさせないし、なんというかとても誠実な作品なのだ。去年のアニメなのに今さら熱くなっている自分が恥ずかしい。
明日も休みだ。やはり、就職先を見つけようと思う。本当のところは、書くことを仕事にしたいと思っていたが、今の僕にとってそれは難しいのではないかと思っている。いや、本音を言えば仕事にしたいですけれども。昨年末からここで書いた3年分の日記をまとめていたのだがやっと終わりの目処が見えてきた。振り返って読んでいると、いつも同じようなことを書いていて笑ってしまう。きっと5年後も10年後も同じようなこと考えて書いているんだろうな。

f:id:miwa19940524:20190128003511j:plain