記録

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いつだって途中だから

劇場を出ると雪が降っていたことがある。それは2年前の2月9日にアゴラ劇場でペニノの『ダークマスター』を観た時だった。偶然にも、ちょうど2年後の2019年2月9日も、劇場を出ると雪が降っていた。東中野のビルの9階、街を見下ろせる場所でウンゲツィーファ『さなぎ』を観たのはそんな日だった。とても素晴らしい演劇だった。新年を迎えた人たちとまだ迎えていない人たちの話である。劇中には、いくつもの時間のずれがある。そのずれは、時差でもあるし、演劇がもたらすものでもある。そしてずれた時間は、演劇の力によって同居する。この作品を観終わってまず思ったのは、僕たちはいつだって何かの途中にいるのだということだった。それは、一方の場面がロードムービー的な側面を持ち、もう一方は新たな年を迎えようとしている家庭の場面であることに起因するし、さらには「さなぎ」というモチーフからも何かから何かへ変わる途中のイメージが想起される。そして、作者のフラットな視線がまなざす登場人物一人一人もまた、人生の途中にいる。人生を描くということはもちろん、そこには生と死がある。一方は産道を思わせる血の跡のついた洞窟の先で死と出会い、平行してもう一方は妊娠という新たな命の誕生が知らされる。しかし、ここでの生と死は対比というよりも連続したものであるように思った。さなぎは、成虫になる前に液体になるという。これは、死ではなく新たに生まれる途中の段階である。生と死は区切られず、もっと境界の曖昧なものであるのだ。こういった大きな枠組みをとりながらも、小さな個人のあらゆる途中が巧みに組み合わせられ、この作品は出来上がっている。また、劇中ではいくつもの選択が描かれる。飛ばないことを選んだ鳥やコウモリのこと。いくつもの幼稚園からどれか一つを選ぶこと。また、洞窟内のセリフで「違う道にすれば良かった」というものもある。さらに、子どもを作るかどうかの選択。そして、離婚の原因を聞かれた父の「いつの間にか僕はこんなとこまで来てて」というセリフ。人生とは選択の連続であり、僕たちは苦悩し何かを選びながら時には後悔し、それでも生きていくしかない。いつだって人生の途中にいて、これからも続いていくのだから。少なくとも彼ら彼女たちは飛ぶことを選んだし、同じ月や星座を見上げている。役者もみんなとても素晴らしかった。個人的に渡邊まな実さんの演技が好きなので見れて良かったし、役者が本業ではないミュージシャンの石指拓朗さんの演技も劇中に馴染んでいた。久しぶりにしっかりと演劇の感想を書いたのは、『さなぎ』という作品が今の自分とどこか繋がっていて響くものがあったからだ。

劇場を出ると雪が降っていて、いつもだったらすぐに家に帰りたくなってしまうのだがせっかく外に出たのだからと目黒まで移動して庭園美術館で『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』を見た。本来は異なる文脈にあるものが、いくつも組み合わさることによって新たな意味を作り上げるコラージュは、あらゆる創作に通じるものだと思っている。岡上淑子は、1950年から1956年のわずか6年しかコラージュ作品を制作していない。切り貼りされ、本来の文脈から解き放たれたいくつもの作品は、ハッと目を奪われるものばかりだった。雪のせいか展覧会はガラガラで、ゆっくりと好きなだけ見ることができた。

最後に最近読んだ漫画のことについて。『夫のちんぽが入らない』2巻と『やれたかも委員会』3巻、どちらとも素晴らしかった。おとちんは、こだまさんの原作が良いことはもちろん、ゴトウユキコさんの絵が本当に魅力的だ。1巻2巻ともに表紙の刹那的な瞬間も好きだ。やれたかも3巻は、試し読みでも話題になった最後の話がどうしようもなく苦しくて胸が痛くなった。ツイッターでこのエピソードを批判している人を見かけて、あの時の僕たちはどうやって生きていけばいいのだと泣きたくなった。高校生の時、自室のベッドの上で悶え苦しみながら読んだ『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を、部室で笑いながら読んでいる人を見てふつふつと怒りが湧いたのを思い出した。巻末の吉田貴司さんとこだまさんの対談も良かった。冒頭で書いたウンゲツィーファの話に繋げるわけではないが、やれたかも委員会も選択の話であるなと対談を読みながら思った。

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