玄関のすぐ外に誰かいる。コツコツとなにかの物音がする。ブルブルと怯えていたら雨が屋根をつたって落ちる音だった。明日は雪が降るらしい。震えていたのは寒さのせいか。
最近は情緒がいかれている。笑ってコラえてのどこかよくわからない町でインタビューに答えている子どもたちや老人を見るだけで泣きそうになるし、電車の窓から見える信号待ちをしている車の赤いブレーキランプの連なりにも泣きそうになる。はたまたSMAPの「たいせつ」を夜中に聴いてその言葉とメロディーにも泣きそうになる。
ささやかでもそれぞれに暮らしなのね
とか
真実は人の住む街角にある
とかもう素晴らしい一節に溢れている。
坂元裕二『花束みたいな恋をした』のシナリオを読んだ。
ポップカルチャーの連打だった。例えば、わずか1ページの中に天竺鼠、cero、いしいしんじ、穂村弘、長嶋有、堀江敏幸、柴崎友香、小山田浩子、今村夏子、円城塔、小川洋子、多和田葉子、舞城王太郎、佐藤亜紀などの固有名詞がこれでもかと詰め込まれているのだ。さらには、ゼルダの伝説や早稲田松竹、ままごと、マスター・オブ・ゼロなどなどもう挙げればきりがない。そこにはかつての自分がいるようで何故だか恥ずかしくなり終始薄目で文字を追いかけていた。有村架純と菅田将暉がこれらの単語を発話しているのかと思うと映画館でスクリーンを直視する自信がない。物語としては言ってしまえば単純なものなのだけれど、作中に登場する固有名詞が橋渡しとなり、その固有名詞に張り付いた物語の外にいる私たちの個人的な記憶を想起させる。麦と絹の物語でもあり私たちの物語でもあるのだと思った。固有名詞に張り付いた記憶はずっとそこにあり続けるのだ。早く有村架純と菅田将暉の発話でこの映画を観たい。
岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』も読んだ。
自分が好きな文章とはユーモアと淋しさが混ざりあったものであり、岸本さんのこのエッセイにはまさにそれがあった。パワフルな力強い文章に憧れることもあるがやはり僕はこういうものが好きなのだと改めて思った。
この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。
ああなんて素晴らしい文章だろうか。一度抱きしめてから心の奥底にしまっておきたい言葉たちがまたひとつ増えた。ちなみに心の奥底にしまっておきたい言葉はいくつかあり、その1つは岸政彦さんの『断片的なものの社会学』にあるこの文章だ。
私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない
もうすぐ岸さんと柴崎友香さんの共著エッセイ『大阪』が発売されるので早く読みたい。
藤岡拓太郎『大丈夫マン』も読んだ。
ただただ素晴らしい。可笑しさはもちろんのこと、優しさや寂しさ、そしてそのどれにも当てはまらない感情がここにはある。個人的に好きなのは、「亀チャン」「なにわろてんねん」「夏のこども」「四月の風」「わたし」「18才」「ハッピー・バースデー」だ。とりわけ「わたし」と「ハッピー・バースデー」が大好きだ。
1ページ漫画「ハッピー・バースデー」 pic.twitter.com/WeORjsHpF0
— 藤岡拓太郎 (@f_takutaro) 2020年5月31日
1ページ漫画「わたし」 pic.twitter.com/SzJCM1zecH
— 藤岡拓太郎 (@f_takutaro) 2018年3月21日
書き下ろしの「街で」を読んでいたらなぜだか大橋裕之『遠浅の部屋』を思い出していた。
2月発売の『ねむらない樹』vol.6にコラムを寄稿した。
依頼をいただいた時、嬉しくて飛び跳ねた。いつも読んでいる雑誌から声がかかる日がくるなんて思ってもいなかった。1000字にも満たない短い文章だけれど本当に嬉しい。ちょうど今日、職場に『ねむらない樹』の注文FAXが来ていて、周りの人に「この本に僕の文章が載るんですよ!」と言いたくなったがグッと堪えて、注文3冊と書いてFAXをひっそりと送信した。入荷したらひっそり買ってすぐさま休憩室でひっそり読むと思う。
外からはまだ雨の音がしていて、雪に変わる気配はない。布団の中で靴下をぬぐ。ひんやりとして気持ちがいい。ラジオからはオードリーの声が聴こえてくる。こんな夜のこともきっとすぐに忘れてしまうだろう。そろそろ寝ようか。