記録

記録

読んだ本のこととか

玄関のすぐ外に誰かいる。コツコツとなにかの物音がする。ブルブルと怯えていたら雨が屋根をつたって落ちる音だった。明日は雪が降るらしい。震えていたのは寒さのせいか。

最近は情緒がいかれている。笑ってコラえてのどこかよくわからない町でインタビューに答えている子どもたちや老人を見るだけで泣きそうになるし、電車の窓から見える信号待ちをしている車の赤いブレーキランプの連なりにも泣きそうになる。はたまたSMAPの「たいせつ」を夜中に聴いてその言葉とメロディーにも泣きそうになる。

ささやかでもそれぞれに暮らしなのね

とか

真実は人の住む街角にある

とかもう素晴らしい一節に溢れている。

坂元裕二『花束みたいな恋をした』のシナリオを読んだ。

花束みたいな恋をした

花束みたいな恋をした

  • 作者:坂元 裕二
  • 発売日: 2021/01/04
  • メディア: 単行本
 

 ポップカルチャーの連打だった。例えば、わずか1ページの中に天竺鼠ceroいしいしんじ穂村弘長嶋有堀江敏幸柴崎友香小山田浩子、今村夏子、円城塔小川洋子多和田葉子舞城王太郎佐藤亜紀などの固有名詞がこれでもかと詰め込まれているのだ。さらには、ゼルダの伝説早稲田松竹、ままごと、マスター・オブ・ゼロなどなどもう挙げればきりがない。そこにはかつての自分がいるようで何故だか恥ずかしくなり終始薄目で文字を追いかけていた。有村架純菅田将暉がこれらの単語を発話しているのかと思うと映画館でスクリーンを直視する自信がない。物語としては言ってしまえば単純なものなのだけれど、作中に登場する固有名詞が橋渡しとなり、その固有名詞に張り付いた物語の外にいる私たちの個人的な記憶を想起させる。麦と絹の物語でもあり私たちの物語でもあるのだと思った。固有名詞に張り付いた記憶はずっとそこにあり続けるのだ。早く有村架純菅田将暉の発話でこの映画を観たい。

岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』も読んだ。

死ぬまでに行きたい海

死ぬまでに行きたい海

 

 

自分が好きな文章とはユーモアと淋しさが混ざりあったものであり、岸本さんのこのエッセイにはまさにそれがあった。パワフルな力強い文章に憧れることもあるがやはり僕はこういうものが好きなのだと改めて思った。

この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。

ああなんて素晴らしい文章だろうか。一度抱きしめてから心の奥底にしまっておきたい言葉たちがまたひとつ増えた。ちなみに心の奥底にしまっておきたい言葉はいくつかあり、その1つは岸政彦さんの『断片的なものの社会学』にあるこの文章だ。

私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない

もうすぐ岸さんと柴崎友香さんの共著エッセイ『大阪』が発売されるので早く読みたい。

藤岡拓太郎『大丈夫マン』も読んだ。

大丈夫マン 藤岡拓太郎作品集

大丈夫マン 藤岡拓太郎作品集

  • 作者:藤岡 拓太郎
  • 発売日: 2021/01/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ただただ素晴らしい。可笑しさはもちろんのこと、優しさや寂しさ、そしてそのどれにも当てはまらない感情がここにはある。個人的に好きなのは、「亀チャン」「なにわろてんねん」「夏のこども」「四月の風」「わたし」「18才」「ハッピー・バースデー」だ。とりわけ「わたし」と「ハッピー・バースデー」が大好きだ。

 

書き下ろしの「街で」を読んでいたらなぜだか大橋裕之『遠浅の部屋』を思い出していた。

2月発売の『ねむらない樹』vol.6にコラムを寄稿した。

短歌ムック ねむらない樹 vol.6

短歌ムック ねむらない樹 vol.6

 

 

依頼をいただいた時、嬉しくて飛び跳ねた。いつも読んでいる雑誌から声がかかる日がくるなんて思ってもいなかった。1000字にも満たない短い文章だけれど本当に嬉しい。ちょうど今日、職場に『ねむらない樹』の注文FAXが来ていて、周りの人に「この本に僕の文章が載るんですよ!」と言いたくなったがグッと堪えて、注文3冊と書いてFAXをひっそりと送信した。入荷したらひっそり買ってすぐさま休憩室でひっそり読むと思う。

外からはまだ雨の音がしていて、雪に変わる気配はない。布団の中で靴下をぬぐ。ひんやりとして気持ちがいい。ラジオからはオードリーの声が聴こえてくる。こんな夜のこともきっとすぐに忘れてしまうだろう。そろそろ寝ようか。

朝焼け

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12月31日の朝、仕事へ行く途中、遠くの高層マンションの窓という窓がオレンジ色で、こんな朝早くでも世の中の人はみな起きているのだなと思い、寒さに身を縮こませながらもどこか慰められた気持ちになっていると、部屋の中の明かりだと思っていたものは窓に映った朝焼けだった。拍子抜けすると同時に、その朝焼けは夕焼けのようにも見えて、今が午後6時であるかのような錯覚に陥った。

しばらくブログを書いていない間に時間はぐんぐんと過ぎていった。仕事がとても忙しく、11月後半から12月半ばまではそれこそ寝るためだけに家に帰っているような生活だった。ようやく落ち着いたかと思えばクリスマスシーズンの到来で、ラッピングに次ぐラッピングの嵐だった。ラッピングを頼まれるたびに世の中ではこんなにもプレゼントが贈り贈られされているのかと感心する。忙しくて嫌になったりもするがこのプレゼントのいくつかたちは枕元に置かれ、子どもたちの顔がパッと笑顔になるかと思うと少しはこの忙しさも許せるような気がした。

年内のことを振り返りたいところだが世の中ではあまりにも色々なことが起こりすぎてそのあれこれがもはや自分の生活にほとんど影響を及ぼしていないのではないかとさえ思える。そんなことはあるはずもなく自分自身のことで言えば職場での異動がとても大きな変化だった。そして異動1日目で緊急事態宣言による自宅待機。これからの人生で一生訪れないであろうただなにもすることもなく家に引き籠る1ヶ月。もしもう一度この自粛期間が訪れたとしてもまた同じなにも有意義に過ごすことのない日々を繰り返す自身がある。これまでの生活の中で1番変わったことは、映画や演劇をほとんど観に行けなかったことだ。しかし、観に行けないなら観に行けないでそれなりに生活は成り立つし慣れてしまった。それでもやっぱり生活に無駄が欲しい。余剰が欲しい。以前のように何も考えずに劇場に足を運べる日は来るのだろうか。

1年を振り返るには時間がないので最近のことを書く。M-1でのマヂカルラブリー優勝がとても嬉しかった。決勝の電車の漫才はそれはもう腹を抱えて笑った。なによりこの優勝でANNレギュラーが見えてきた。ゴールドジムイデア店が待ち望まれる。M-1はもう全組面白くて、敗者復活戦から夢中になって観た。敗者復活はキュウとランジャタイが最高だった。ニューヨークの漫才の、「マッチングアプリで出会った人妻と自転車で2ケツしてゲーセンでメダルゲーム」というフレーズの妙な生々しさに痺れた。クリスマスは仕事で、仕事終わりに自分へのクリスマスプレゼントにこの3冊を買った。

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我ながら良いセレクトだと思う。クリスマスの日に偶然見かけたtototatatuという韓国のイラストレーターのイラストに胸を撃ち抜かれた。

都市生活者の孤独だ。さみしさが肯定されたような気持ちになる。

街裏ぴんく漫談独演会『母の体から明転飛び出し、逮捕キッカケで完全暗転』を観に行った。相変わらず現実と非現実を繋ぎ止めるディテールの巧みさが異常だ。本当に面白い。

忘年会を兼ねて高校時代の友達とエリックサウナマサラダイナーへご飯を食べに行った。宮下パーク入り口前集合ねと言われ、オッケーなんて知った顔して返事をしたがまったく変な場所で待っていた。僕は宮下パークを知らない。エリックサウスでは、ホタテのドーサと牡蠣のビリヤニが泣いてしまうほど美味しかった。美味しいねえ美味しいねえと何度も口にした。帰りに渋谷ツタヤで『チェンソーマン』を全巻買った。家に帰りすぐに読んで面白さに震えた。面白え面白えと何度も口にした。

年末は、『ゴッドタン』のマジ歌選手権、『芸人プリズン』『東京babyboys9』『クイズ正解は一年後』などを観て過ごした。まさかあんなにくだらないはずの『クイズ正解は一年後』で世界が1年でこんなにも変わってしまうことを見せつけられるとは思いもしなかった。ずっと観れていなかった『ベター・コール・ソウル』シーズン5も完走した。今年は『愛の不時着』という傑作ドラマがあったわけだが、個人的には『ベター・コール・ソウル』はあらゆる連続ドラマの中でも群を抜いている。第3話のラスト、ビール瓶を駐車場に投げるシーンの素晴らしさよ。ただ無言でビール瓶を投げるだけなのになんて哀しく美しいのだろう。

こんなことを書いているうちにいつの間にか年が明けていた。残業で紅白もろくに見ることができず家に帰ってきて親が送ってきてくれた蕎麦をゆがいて食べた。今年もなんとかやっていこう。

憂鬱

久しぶりにしんどい気持ちでどうしようもなくなっている。昨日は午後から仕事だったのだが出勤すると職場のマダムたちにバッと囲まれ延々とキツい言葉を浴びせられ、心が沈みに沈んだ。その直後から胸がズキズキと痛み、頭痛と謎の胸の痛みに襲われなにも仕事が手につかなかった。これがいわゆるストレスというものだろうか。なんて自分は心が弱いのだろうと思うし、そのような言葉を言ってきた人たちにはこっちの立場も理解してくれよと泣きたくなる。社員が2人いなくなり、その人たちの仕事がすべて自分に振られ、その人たちの下についていた人たちからあなたにはその穴は埋められないし無理だろうと言われているのだ。こちらとしては一緒に頑張っていきましょうという心持ちなのに。弱々しい26歳の男などマダムたちから見れば不安をぶつける格好の的なのだろう。もっと自分に自信があり、ちゃんと意見を言えればこんなことにはならないのかもしれない。とにかく今は辛いが、なんだか会社あるあるみたいな状況に笑えてくる。いや、そう思わなければやってられない。

辛いことが多いので最近の楽しかったことを振り返る。11月の初めに、二子玉の蔦屋で開催されていた「庭文庫」という岐阜にある書店の店主によるトークイベントを聴きにいった。この書店はあさやけ出版という出版社もやっていて、そこから出たばかりの詩集についての話がメインだった。急遽、その詩集の著者も登壇できることになり、その登壇できるようになった理由が、豚の出産が無事終わったからというものだった。普段は岐阜の養豚場で働いていて、その合間に詩を書いているらしい。養豚場で働きながら詩を書くというその行為に心底感動してしまった。そして、二子玉という大衆にまみれたお店のど真ん中で、1冊の詩集について語られるというその小ささとかけがえなさにずっと胸がいっぱいになっていた。トークが終わったあとは、小説家がおすすめの本をそれぞれのブースで売るイベントに参加した。滝口悠生さんが出店していて、ファンなので自分には珍しく積極的に話しかけ、おすすめされたこうの史代『さんさん記』を購入した。好きな作家と直接話ができる機会が訪れるとはなんて嬉しいことだろう。

11月は演劇も映画もなにも観ていない。家と仕事の往復ばかりだ。シソンヌのライブ『neuf』は配信チケットを買って自宅で観た。かれこれ3〜4年は毎年単独ライブに行っていたので生で観ることができず残念だったが、それでも期待の何倍も上回る面白さで観終わった後は多幸感でいっぱいだった。瞬間的な面白さはもちろんだが、コントの中に悲喜こもごもがあり、ああこの人たちはたしかに生きているなと思えるのだ。キングオブコントがまだ準決勝で敗退した芸人審査だった時に優勝した東京03かもめんたるにも同じものが流れていて、空気階段がもしこの審査のままだったら優勝はできていたはずだよなとつくづく思う。芸人のYouTubeもよく観ている。最近面白かったというか嬉しかったのはAマッソのゲラニチョビ復活だ。

youtu.be

正確には復活ではないのだが、この感じが懐かしく夢中になってゲラニチョビを観ていたなと思い出した。今はAマッソはほとんど追いかけれていないが、THE Wで決勝に進出したり、加納さんのエッセイが発売されたりと間違いなく才能で溢れた人たちなのでもっともっと活躍してほしい。あとは、ニューヨークのチャンネルでのウエストランドによる爆笑問題の分析も面白かった。

youtu.be

単純に僕は爆笑問題が好きなのでその周辺のエピソードが聞けるだけで嬉しい。毎週ラジオで2人のやりとりを聴けることが1週間の楽しみなのだ。爆笑問題おぎやはぎはずっとラジオを続けてほしい。

本は、佐藤正午『月の満ち欠け』を読んだ。

岩波文庫的 月の満ち欠け

岩波文庫的 月の満ち欠け

 

読み始めたら止まらなくなってしまい数日で読み終わってしまった。早く続きを読みたいという物語としての引きの強さと、1人の人を想い続ける純愛を装った少し不気味な話にはすっかり夢中になった。次は『鳩の撃退法』を読みたい。滝口さんにおすすめされたこうの史代さんさん録』もとても素晴らしかった。

さんさん録 : 1 (アクションコミックス)

さんさん録 : 1 (アクションコミックス)

 

亡くなった奥さんが遺した生活の知恵が書かれたノートを頼りに、主夫として息子夫婦と同居する参さんの話だ。料理の作り方や掃除の仕方などが淡々と描かれるコマに無性に感動し、それが亡くなった奥さんの行為をなぞることだということにも心打たれた。なによりノートに遺された参さんへのメッセージがすべてを物語っている。

この世でわたしの愛したすべてが、どうかあなたに力を貸してくれますように

ああなんて良い言葉だろうか。

明日からの仕事とこの先が憂鬱で仕方ない。でもなんとかやっていくしかない。自分には好きなものがたくさんあるのだ、それらに支えられているのだと思って頑張ろう。いや、でも明日職場に行きたくない気持ちに変わりはないが。

最近のこと

映画までの待ち時間が40分ほどあり、椿屋珈琲に入った。そこそこ混んだ店内でメイド服の店員が席へ案内してくれる。たしか果物がゴロゴロ入ったフルーツティーがあったはずだと思っていたが、縦長のメニューを渡された時にあれは星乃珈琲だったと気がついた。まあでもアイスコーヒーでいいやと注文して待っていると、同じタイミングで頼んでいた隣の席の人のアイスカフェオレがすぐに運ばれてきた。しかし、待てど暮らせどアイスコーヒーが来ない、まあ15分来ないこともあるだろうと、気長に店内のwifiに繋ぎNetflixで観たいアニメのダウンロードに勤しんでいた。喫茶店でアルバイトをしていた身としては、珈琲がちょうど切れてしまって落とすのに時間がかかる可能性も捨て切れないと20分は待った。いやでもさすがに映画の時間を考えるともう待てないぞと店員に、注文通ってます?と聞くと案の定通っていなかった。ごめんなさい、時間ないので注文通ってないなら帰りますと言うと、メイド服の店員が本当に申し訳なさそうに謝った。まわりの人がなんだろうとこちらをちらちらと見ていた。なるべく嫌な言い方はしないようにと何度も声のかけ方を頭の中で考えていたが、相手は必死に謝っていた。ちがうちがう、そんな雰囲気にしたいのではないのだ。なにより僕はノーパンである。ジーンズにノーパンだ。洗濯が間に合わずまあいいかと直にジーンズを履いてきたのだ。僕は特に謝罪をしてほしいわけでもないし、謝罪した側も申し訳ないなんて思うこともなくて、ただ注文が通っていなかっただけで、それだけなのだ。たったそれだけのことで誰かが不快な気持ちになるとか怒られるとかは違うのだ。お願いだからそんな謝る必要はないのだよと思いながらも口に出すことはできずお店を出て映画館へ急いだ。『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観た。テレビアニメから何十年も時間を飛ばした場所から物語が始まりそのやり方に早速涙ぐんでしまった。それからというもの何度も涙ぐみ、ラストに差し掛かるにつれ劇場中の至るところからすんすんと鼻をすする音が聞こえてきた。こんなにすんすん聞こえてくる劇場は初めてかもしれない。それはもう美しい物語だった。

ブログを書いていなかったこの2ヶ月のことを振り返るとなにがあっただろうか。9月の頭に半年ぶりに演劇を観た。ロロのいつ高シリーズ『心置きなく屋上で』だ。いつ高新作は2年ぶりらしく久しぶりの友達に会うかのようだった。コロナ以降初めて劇場で観た作品がこの作品でよかった。舞台に作られた屋上は、まぎれもなく屋上であったし、空を見上げ校庭を見下ろす彼ら彼女たちはほんとうにそうしているのだと思った。やはり演劇のこの感覚は代替不可能だ。演劇は、五反田団の『いきしたい』も観た。これがもう傑作であった。上演時間も1時間とちょうどよい長さだった。最初はなんてことない会話劇かと思っていたが、次第にとんでもないところへ辿り着いていた。いや、なんてことない会話劇であるはずもなく、前田司郎の天才的な巧みさがあるわけだけれども。当日パンフの文章も良かった。

生きるのは、何かを獲得していく過程ではなくて、何かを手放していく過程のように思えます。記憶だって生きてきた時間の分だけ持っているのではなく、両手に持てない分は、道の途中に落としていって、それが時々道に落ちているのを見つけたりもするけど、大抵の記憶は永遠に失われてしまって、失ったことすら思い出せないのに、特定の記憶だけが幅をきかせてこびりついてはがれないこともあって、ままならないものです。

自分は何かって考えるといつも、自分は記憶で出来ていて、その記憶は改ざんされたり紛失したり、作られたりして、結局、確固たる自分などないのではないかと思えて、そんなあやふやな自分が感じている愛だとか憎しみだとかって一体なんなんだろうと、そんなことばかりを考えている。 

まさに今回の作品で描かれていたことはこのことであり、 ああ記憶ってほんとうにそうだよなと思った。死に引っ張られていってしまう感じがどことなくウェストールの『禁じられた約束』っぽさもあった。

演劇はこれくらいしか観ていないがコロナの状況の中で観ることができただけでも嬉しい。本はあまり読むことができていなくて、唯一読んだのはこだまさんの『いまだ、おしまいの地』だ。こだまさんの淡々とした文章の中にある美しさとユーモアのバランスに夢中になって一気に読んだ。

漫画は最終巻が発売されたばかりの『A子さんの恋人』がそれはもう素晴らしかった。連休があったのでじっくりと1巻から読み直して最終巻に突入したのだが、改めて近藤聡乃はとんでもないドラマメイクの才能の持ち主だ。あらゆるエピソードの語りがその辺の脚本家の数倍上手い。すべての登場人物が愛おしくて仕方ないが、最終巻でのU子ちゃんのセリフの「私は全然かわいそうじゃない」には泣いてしまった。これから生きていくなかで支えになるような言葉だ。終わってしまった寂しさと同時にまだ彼女たちや彼らの人生が続いているような気がしてならない。漫画は他には和山やま『カラオケ行こ!』が面白かった。和山やま先生はいま1番新刊が読みたい作家だ。

ラジオはもう1ヶ月も前になるが『マヂカルラブリーオールナイトニッポン0』が期待通りの面白さだった。単発2回目なので早くレギュラーになってほしい。いや、レギュラーになるべきラジオだ。この面白さの感覚はアルピーのANN以来なので早くまた聴きたい。ここ数ヶ月あらゆるラジオが本当に面白かった。くりぃむしちゅーのANN復活であったり、爆笑問題の田中がコロナになり代打で劇団ひとり伊集院光アンガールズが来たり。なによりおぎやはぎは小木が癌の治療で休み矢作もコロナで休んで2人ともスタジオ不在で、その代打にアルピーやハライチ、爆笑問題ザキヤマだったりともうたまらなかった。そしておぎやはぎ復活の9月10日の助っ人全員集合のオギーナイトニッポンには笑いながら感動した。とんでもなくくだらなく、文脈がわからなければなにも面白くないのだけど長年聴いてきた身としてはとにかく良いのだ。GERAも色々と聴いていて、最近はスーパー3助とほしのディスコの『サウナミュージック』の更新を毎週楽しみにしている。スーパー三助のルーザー感が良い。あと、声がさらばの東ブクロに似ている。さらばのラジオのタダバカも毎週本当にくだらなくて面白い。リスナーの高校生に無理やりコンビを組ませて漫才をさせたりしているのだ。

アニメは『僕のヒーローアカデミア』を2週間で4期まで一気に観た。こんな面白いものをどうして見逃していたのだと後悔しかない。『鬼滅の刃』ももちろん面白いが異常なまでの流行り具合に個人的にはヒロアカを推したくなる。おすすめされた『メイドインアビス』も観た。これも面白かった。

年内に引っ越しをしたく物件探しをしている。今は通勤に1時間半もかけて隣の県まで通っているので、もう少し近いところに住もうかと思う。金木犀の香りもどこかへ消え、上着を羽織らなければ外も歩けないような季節になってきた。年を越す前に良い家と良い街を見つけたい。

草餅の香り

もう一ヶ月前ぐらい前の話なのだけれど、夕方電車に乗っていたらぞろぞろと泥まみれの野球少年たちが乗ってきた。中学生くらいで、騒がれたら嫌だなあと思っていると思い思いに手に下げたビニール袋から食べ物と飲み物を取り出し食べ始めた。右からピザポテト、ようかん、からあげ棒、クーリッシュ。飲み物は濃いめカルピス、ファンタメロン、ドデカミン、Qooだった。部活終わりに中学生が選ぶにはあまりもベストなセレクトで感嘆した。黙々と食べては飲みを繰り返し、よそ見している友達のピザポテトにこっそりと手を伸ばしたりもしていた。ちょうど電車は川を渡るところで、夕陽が車内に差し込んでいた。彼ら自身は気づきようのない、永遠のようなものを目撃してしまったような気持ちになった。

最近はずっと気分が低空飛行を続けていて、この気分が自分の当たり前のようになっている。これはコロナのせいだったり暑さのせいだったり色んなことが要因なのだろう。映画もドラマもバラエティ番組も観たいし、本も漫画も読みたいがこの1年くらいは気分がそれらに追いついていかない。好きなことへ向き合う気力がなくなっていることが悲しい。けれども、『愛の不時着』(駅のアナウンスで韓国語が聞こえてくるとリ・ヒョンジョクの顔が浮かんできたり、今でもあの第5中隊のみんなや村の奥様方の愛おしさを思い出す!)も『Nizi Project』も夢中になって観たし、『半沢直樹』も毎週楽しみで仕方がない。もはや流行っているものを執念と楽しみの半々で追いかけている。本は相変わらず児童書を読んでいて、最近はケストナーの『点子ちゃんとアントン』を読んだ。

 

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

 

 

まずもって点子ちゃんというキャラクターの最高に魅力的なこと。最初の1ページ目から社長の娘である点子ちゃんが壁に向かってマッチ売りの練習をしている場面から物語が始まるのだ。このシーンだけでがっしりと読者の心をつかむ。なによりケストナーの作品には嘘がない。人生にはどうしようもないほどにつらいことがあるんだと正直に語る。でもそんな中でも、賢さや勇気、優しさがあれば生きていくことができるとあらゆる物語で伝えてくれる。その「正しさ」が今の自分にはとても響く。ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『アーヤと魔女』も読んだ。

アーヤと魔女

アーヤと魔女

 

本当に短いお話なのだがこれもまた賢さをもって行動できる子どもの話だ。

『たいようのおなら』という子どもが書いた詩集をツイッターにのせたところ13万いいね2万リツートといういわゆるバズるという事態になった。こんなこと予想もしていなかったので怖くなってしまった。バズるのは可愛い猫だけだと思っていた。しかしながら『たいようのおなら』は本当に良い詩集だ。とりわけこの「なかなおり」は素晴らしい。

わたしが五さいのとき

おとうさんと

おかあさんが

ふうふげんかをしました

でもいまは

わすれています

きょうは 土よう日

あしたは 日よう日

あさっては 月よう日です

 最後の飛躍の美しさ。

絵本は『ゆうびんやのくまさん』『せきたんやのくまさん』『ぱんやのくまさん』などの働くくまさんシリーズを読んでその淡々と働く姿に美しさをみた。ドラマチックなことはなにも起こらず、ただくまさんが働いてお金をもらい、1日の終わりにお茶を飲み本を読む姿が描かれている。そのなんでもない営みの尊さよ。ちなみに『せきたんやのくまさん』だけ石井桃子が翻訳している。 

 本当に久しぶりにブログを書いた。まったくもって書くことがないと思っていたが、いざ書き始めるとあれもこれもとなって意外に書けてしまうものだ。普段生活していて起こった出来事や気づいたことをブログに書こうとスマホにメモをしたりすることがあるのだが、大抵は見返すとどうでもいいことのように思えて消してしまう。その中でもかろうじて消していなかったことを書いて終わりにする。メモには「草と草餅」と書いてある。これは、仕事帰りに夜道を歩いていたら原っぱから良い香りがしてきて、その時に「あっ草餅の香りだ」と思ったのだが、すぐにいやいや草餅は草からできているから草の香りがするのであって、原っぱから漂ってきたのは草餅の香りではなく草そのものなのだと気づきハッとしたという出来事だ。ただそれだけの出来事だ。

最近のこと

仕事中に職場の窓から見える夕焼けが綺麗だと思えるぐらいのぎりぎりの人間性を保ちながら日々生きている。先月は毎日朝5時に起きて2時間かけて職場に通っていたが、今月は遅番なので夜24時過ぎに帰宅する生活だ。朝5時の日々は家に帰ると死んだように眠り、今の24時過ぎに帰宅する日々は明日がすぐ訪れてしまう短さに嘆いている。

数週間前、ミスドでポンデちぎりパンなるものが売っていたので物は試しと2種類買ってみたがそれはもうただのパンだった。ドーナツを基準にしたらもっちりはしているが、パンを基準にするならばパンが元来持ち合わせているもっちり感にすぎないのだ。ポンデの名を冠しているならば、あのもっちりを期待してしまうではないか。例えるならばスーパーに入っているパン屋さんの総菜パンとちょうど同じ味と触感だった。

この話をだれかにしようと思いながら2週間以上が経った。職場での世間話としてレジに立った際にアルバイトの大学生に話そうかと考えていたがこんなこと大した話ではないしなんだかクレーマーのようで変な人と思われるのではないかと怖くなり話せずにいる。世間話はとても難しく、好きな映画はなにか好きな音楽はなにかと聞かれたときには話を濁してしまう。この質問に大きな意味などないことぐらいわかっているがなにかを試されているような気持ちになる。つい先日職場でこれらの質問をされたが案の定話を濁し、そんなことより好きなファミレスとコンビニの話をしましょうよと強引に話題を変えた。しかし、そんなのありませんと言われてあえなくコミュニケーションに失敗した。

この前、新しく作った日記本の感想をエゴサしていたら、この人はこんなに好きなものがあるのにどうして一行だけですませることができるのだろうか?合わないな。というものがあった。たしかに好きなものはたくさんあるが饒舌になることができない。好きなものを饒舌に語ることができる人は羨ましい。僕はただ好きなものを好きだとしか言うことができない。

先週、職場の人たちと歓迎会のバーベキューがあった。この催しの数週間前から「職場」「バーベキュー」という2単語がぐるぐると頭の中をめぐり、胃が痛かった。当日は、仕事が終わった後に各自現地集合だったので早めに仕事を切り上げて忘れたふりでもして帰ってやろうかと思ったがそこまでの勇気が出なかった。バーベキューは、肉を焼く人というポジションを確保すればその場所にいることが許されるのではないかと思案し、肉を焼こうとしたが歓迎される側だからと拒否された。うまくいかない。しばらくすると、服を脱ぎだす人が現れた。筋肉がすごいからと周りにはやし立てられ上裸になっていた。髭を生やした人がゲイみたいだと言われ、上裸の人と腕を組まされカップルみたいだとみんなが爆笑し写真を撮ったりしていた。ここは地獄か。そのゲイみたいだと言われていた人は、カミングアウトしちゃいなよとか今はそういうのありな時代だよといじられていた。ゲイみたいだと写真を撮り、爆笑していた人たちの軽薄な理解と歩み寄りに怖くなった。そんな中、バーベキューに犬を連れてきていた人がいたので僕はずっとその犬を撫でたりジャーキーをあげたりして、犬が好きで犬をひたすら可愛がる人としてそこにいた。実際、犬はとても可愛かった。お手もおかわりもするし、指で丸をつくるとそこに鼻を突っ込んでくる芸も見せてくれた。その場では犬の無垢さだけが救いだった。2次会に行く流れだったが次の日も5時起きなので早々と帰宅した。

もはやラジオを聴くか仕事へ行くかの日々なので、面白かったラジオについては書きたいことがたくさんある。ここ数週間で言えばそれはもう霜降り明星のANN0だ。せいやの文春報道後のポケひみだけの狂った放送。世間では大絶賛だったが、爆笑問題太田さんのあれはボケのモザイクで股間を隠しただけだと言うのは言い得て妙だった。あの放送の翌週は、報道についてしっかりと触れていてその情けなさが良かった。最低のおはロックには大笑いしたし、世界中にちんちんばらまかれたも笑った。なにより、粗品がこの一件を「友達やからおもろいわ」と言っていて良かった。芸人が相方を友達と言っているとなんだか嬉しくなってしまう。爆笑問題おぎやはぎも会話から友達感が滲み出ていて好きだ。そんなおぎやはぎのラジオで先週小木が話していたマイティとボブの話が最高だった。ボブの話をする前に矢作が「小木のボブの話おもしれえんだよなあ」と言っていたのが良かった。

ラジオ以外の他の出来事といえば、シャムキャッツの解散にはとても驚いた。シャムキャッツの音楽が本当に好きだったのでまたいつか聴ける日がくることを願いたい。タワレコのインストアライブでサインをもらったのが今になっては思い出深い。東京キネマ倶楽部での、サニーデイとのツーマンも良かったなと色々と思い出した。写真フォルダを見ていたらもう4年以上前なのかと驚愕した。

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昨日の夜、野菜を素揚げした。野菜の色がくっきりと鮮やかになったことにやけに感動してしまい写真を撮った。茄子の艶感にうっとりした。

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素揚げした野菜をひき肉しか入っていないカレーに乗せて食べた。オクラもズッキーニも茄子も全てが美味しかった。素揚げブーム到来の予感がしている。

昨日の深夜から朝4時にかけて、Netflix三宅唱呪怨 呪いの家』を観た。30分6話なので長めの映画を観たような感覚だった。本当は1話だけ観るつもりだったがあまりに面白く、朝を迎えていた。さすがの三宅唱で演出が抜群に良い。

この前読んだ町田洋『船場センタービルの漫画』が素晴らしく通勤途中に少し泣いた。

to-ti.in

自分はこういうものが好きで心打たれるのだと改めて思った。最後の「みんな幸福になってくれお願いだ」に畏れ多いが自分が2冊目の日記本のあとがきの最後に書いた文章に重なるものを見た。

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歩きながら、どうかみんな幸せになってほしい、あらゆる物事が良い方向に進んでほしい月並みのことを思った。

今でもこの気持ちは変わらないし、どこか遠いところにいる知っている人も知らない人も、もう関わらなくなってしまった人もみんな幸せでいてほしい。

意味のない写真

これはもう夏だと思う日が続いている。

この一行だけを書いて数週間が経ってしまった。ここ数日は今年は梅雨が来ないんじゃないかと期待したりしたが、どこからともなくひょっこりと顔を出してきた。いつもそうだ。そんなことを思っていたら今日はまた夏のような日だった。

4月から毎日日記を書こうと決意した。しかし、その決意も日が経つにつれて薄れていき5月末にはどこかへ行ってしまった。2ヶ月坊主の自分に我ながら呆れてしまう。4月は頑張れていた。仕事がしばらく休みになり、家にいたからだ。ただその日の料理のことを書けば豊かな自粛期間を過ごしているような錯覚を自分に与えることができていた。実情はもうただベッドに転がっているような日々だ。この自粛期間でなにかを成し遂げることも挑戦もしていない。散歩とスーパーへ行くことだけを楽しみにしていただけだ。きっと、もう一度この休みの日々が訪れたとしても同じことを繰り返す自信がある。なんて自分は駄目なんだと思って辛くなるが、もうそういう性格なんだと諦めるくらいの心境になり始めた。他の人と比べない。

5月に入り仕事が再開してから1ヶ月以上経とうとしている。異動してすぐに休業になったため、まだまだ慣れないが少しずつ周りの人とコミュニケーションが取れるようになってきた。なんだが責任のある立場になってしまっていて不安だが頑張るしかない。6月になってからは、朝5時に起きて仕事へ行っている。これまでは午後から仕事をすることが多かったので、朝から働く気持ちの良さに浸っている。午前中のまだ暑くならない空気のなか職場へ向かうときは、まともな生活をしている感覚になる。まともな生活といえば、この前「本屋title」へ納品に行った際に店主の辻山さんとお話をしたら「営業時間短縮のおかげで人間らしい生活ができています」とおっしゃっていた。titleでは、荒井良二『こどもたちはまっている』とカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』を買った。

 『なぜならそれは言葉にできるから』はずっと気になっていたのだが4000円という値段になかなか手が出なかったのだけれど今回は思い切って買った。荒井良二さんの絵本は言わずもがな素晴らしい。絵本を開いた瞬間に世界がどこまでも広がっているかのような印象を受けた。最近は、児童書を読んでいこうと張り切っている。まず手始めにケストナーの『エーミールと探偵たち』を読んだ。少年たちの正しくあろうとする姿と勇気になんて素晴らしいんだと感嘆した。続けて同じくケストナーの『飛ぶ教室』を読み始めるとまえがきの段階でとんでもなかった。

どうしておとなは自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことを、けっして忘れないでほしい。約束してくれる?ほんとうに?)

人形がこわれたので泣くか、それとも、もっと大きくなってから、友だちをなくしたので泣くかは、どうでもいい。人生、なにを悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。誓ってもいいが、子どもの涙はおとなの涙よりちいさいなんてことはない。おとなの涙よりも重いことだって、いくらでもある。

生きることのきびしさは、お金をかせぐようになると始まるのではない。お金をかせぐことで始まって、それがなんとかなれば終わるものでもない。こんなわかりきったことをむきになって言いはるのは、みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことは、ぜったいにない!みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ。みんなには、できるだけしあわせであってほしい。ちいさいおなかが痛くなるほど、笑ってほしい。

ただ、ごまかさないでほしい、そして、ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目をひらいて見つめることを、学んでほしい。うまくいかないことがあっても、おたおたしないでほしい。しくじっても、しゅんとならないでほしい。へこたれないでくれ!くじげない心をもってくれ!

ボクシングで言えば、ガードをかたくしないければならない。そして、パンチはもちこたえるものだってことを学ばなければならない。さもないと人生がくらわす最初の一撃で、グロッキーになってしまう。人生ときたら、まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね!

たっぷりと引用してしまった。結局まえがきだけ読んで胸がいっぱいになってしまい本編までたどり着けなかったのでこれから読み進めていくつもりだ。人生には厳しいこともあると正直に伝える姿勢が好きだ。

長い通勤時間は相変わらず狂ったようにラジオを聴いている。先々週の爆笑問題カーボーイでの、太田さんのサラリーマン川柳を大絶賛する田中さんと、田中さんのボビーのモノマネに大笑いする太田さんがとても良かった。先週も、新発売のペヤングを嬉しそうに太田さんの家に買って帰ってくる田中さんの話に幸せな気持ちになった。ケンタッキー食べたりペヤング食べたりしながら2人でネタを作り続けている関係性が本当に好きだ。CD田中も大笑いしながら聴いた。

先日、手紙が届いた。大学の恩師からだった。新しく作った日記本をお送りしたのでそのお礼の手紙だった。コロナであらゆることが間接的になった世界で、手紙という間接的でありながらしかし温度のあるものに救われた。

久しぶりに書いているので最近のことを思い出すためにカメラロールを見ていると、猫を撮ろうとしたら逃げられてただ地面だけが写った写真があった。

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一見まったく意味のない写真だが、ああそういえばあの時猫に逃げられたのだよななんてことを思い出したら途端にこの瞬間が愛おしくなった。

また明日も朝5時に起きて仕事へ行く。こんな高架下をずっと歩いて職場へ向かう。

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高架下を歩いているとなんだがayutokioの「あさがお」が聴きたくなる。


ayU tokiO「あさがお」 MV

明日もきっと音楽を聴きながら歩くのだろう。