記録

記録

辿り着く

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今は、朝の6過ぎで、夜勤帰りの電車の中にいる。片手には、コンビニで買った炭酸水。無性に喉が渇く。深夜1時に、公園のベンチでカツ丼を食べたからだろうか。その時は、雨がぽつぽつと降っていたが、今は止んでいて、外の空気は、生ぬるく湿っている。

突然だが、「好き」という気持ちは巡り巡ってたどり着くことがある。昨日、ロロの三浦さんがこんなツイートをしてくれた。

 尊敬する三浦さんが自分の書いたものを読んでくれたこと、そして感想も書いてくれたこと、そのことが本当に嬉しくどうにかなってしまいそうだった。三浦さんが読んでくださっている『やがてぬるい季節は』には、ロロのことをたくさん書いている。とにかく僕はロロが好きなのだ。2015年からの記録なので、あのブログを書いている当時の自分は、まさか尊敬している人のもとに言葉が届くとは思っていない。ロロを知ったのは、ヒコさんのブログからだった。あの当時は、ヒコさんは憧れで遠い存在で、いや、今もその気持ちは変わらないのだけれど、でも今ではよく遊んでもらっていて、数年前の自分が聞いたらきっと嘘だと言う。三浦さんが、「記録の積み重ねが記憶を作っていく」と書いてくれていて、『父母姉僕弟君』を思い出した。

今は、もうなくなっちゃったかもしれないけど、かつてほんとにあって、そのかつてが、今とこれからに繋がりますようにって祈りながら、俺はこうやって、しゃべり続けてて、俺がいつか忘れてしまっても、どこかにそのかつてが生き残りますようにって、俺の知らないところでもたくさんのかつてが生き残りますようにって、祈って祈って、描写して描写して描写して描写して……

僕が日記を書いているのは、単純に、忘れたくないからだ。このブログを開設した日につけたブログ名が「忘れないように」だった。しかし、なんだか恥ずかしくなり、すぐに「記録」に変えた。日記を書き始めて、毎日同じような日もあるし、同じようで少し違う日もある。日常こそ素晴らしいのだとか、そこに美しさを見出したいとかではなくて、単純にただ日々のことを記録しているだけだ。けれども、場所や名前などの固有名詞を多く書いているのは、そこに個人の記憶が張り付いていると日記を書くにつれて思うようになったからだ。ヒコさんが、『父母姉僕弟君』について、こう書いている。

どんな方法だっていい。文章にしたためるでもいいし、誰かに語るでもいいし、歌に、絵に、写真に、映画に、三浦直之のように演劇に託す人もいるだろう。とにかく何かしらの方法で、想いや感情を保存する。もしかしたら、それは大袈裟に美化され、事実とはかけ離れたものになるのかもしれない。しかし、それらはいつしか”物語”と呼ばれ、遠い見知らぬ誰かに届くかもしれない。

 三浦さんがツイートで、「物語の登場人物になれた気がして嬉しいです」と書いてくださっていた。僕のなんてことない好きなものについて書いた記録が、本という形になったことによって、いつしか物語になっていた。いや、物語なんて大層なものではないけれど、好きという想いが巡り巡ってたしかに遠い誰かに届いたのだ。

先日、そんなロロの『はなればなれたち』を観た。お芝居を観ながら、終始、ああロロだなあと思っていた。向井川淋しいが描いた戯曲は、淋しいを想い続けるすい中に語られることによって「らしい」が隠蔽され、物語となり、私たちに届く。それは、事実とはかけ離れたものかもしれないが、物語を作り上げることによって、はなればなれは、「はなればなれたち」になる。希望だと思った。『わが星』の大胆な引用にもいたく感動した。

 好きという気持ちは巡り巡ってどこかへ辿り着くと書いたが、よく考えてみれば一方的に渡しているだけだ。三浦さんも、ヒコさんも、佐久間宣行さんも、坂元裕二さんも。けれども、どこの誰かも分からない自分の好きなものについて書いた記録に対して、お渡ししたみなさん全員が反応をくださった。数年前に書いた好きという気持ちは、どんなに時間がかかっても形を変えてたどり着いた。ただ今は、そのことが嬉しい。