記録

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うるせえ!と僕は思ってしまう

いま目の前にあるのは、自分がどうするかの選択のみで、いや、そもそも人生はその連続なわけだけれども、誰かの人生に思いを馳せるみたいな余裕がなぜか自分の中にはある。1年半ほど前に、散歩をしながら道ゆく人の会話の断片をメモしたことがある。

miwa0524.hatenablog.com

この時は、盗み聞きすることそのものへの好奇心のようなものが先行し、断片から想像を巡らせていた。もちろん、断片から想像する楽しさはあるし、断片だからこそ愛おしいみたいなところもある。けれども、現在進行形の人生がその人の言葉によって綴られている文章は、会話の断片とはまた異なり直接的に胸をふるわせる。それは、知っている誰かではなくて知らない誰かの人生の方がより好ましい。最近では、この2つの文章を読み、ずっと忘れることができない。

anond.hatelabo.jp

gameboyz.hatenablog.com

どちらも感想は述べない。誰かの人生にとやかく言うなんてことはできないし、もし分かったようなことを言われたら、「うるせえ!」と僕は思ってしまう。
フィクションではあるが、1週間限定で公開されている『やれたかも委員会』のこのエピソードもまた誰かの人生だ。

note.mu

ブログにしろフィクションにしろ、どうしても話題になったものしか目に触れる機会がなく、本当は誰かの人生はもっともっとインターネットに溢れているはずで、僕はそれを読みたい。
きっと、このブログも誰にも読まれることのない誰かの人生の内の一つだ。自分の人生は自分のものであるが、他人にとっては誰かの人生である。そんな当たり前のことがとても不思議だ。

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Things So Faint But Real

高層ビルやマンションに夕日が当たり、まるで最初からそれが綺麗な橙色の建物だったのではないかと見間違えるような日がある。そういう美しい夕暮れを、人々が行き交うなかで立ち止まって見つめている人がいる。残念ながら僕はそんな人にはなれなくて、誰もいない線路沿いの道をゆっくりと歩きながら眺めることしかできない。

インフルエンザにかかり、しばらくダウンしていた。そのタイミングでアルバイトも週1になり、引きこもりに拍車がかかってしまった。ここ数日は、家から一歩も出ないこともざらにある。なにも起きない日々が続いている。とりあえず来月には生活費が底を尽きてしまうので、なにか単発のアルバイトを探さなければならない。
東京都写真美術館へ『小さいながらもたしかなこと』という展示を見に行った。今回展示されていた森栄喜さんの『Family Regained』は写真集を手にしていたので何度も見たことがあったのだが改めて大きな写真で見ると、その真っ赤な色味とそこに込められた意味により切実さが増す。ミヤギフトシさんの『Sight Seeing/感光』は、暗闇で長い露光時間をかけて撮影されたものなのだが、まるで本当にそこに人がいるかのような写真だった。リアルとはまた違う、しかしたしかに人のいる実感。
引きこもっている間に、アマゾンプライムで『宇宙よりも遠い場所』を一気に観た。とても素晴らしいアニメだった。あらすじは、女子高生が南極へ行く話なのだが、テンポの良さと青春物語としての面白さにあっという間に引き込まれる。これは「距離」を描いた作品だと思った。南極という遠い場所との距離であり、人と人との距離の話でもある。ロロのいつ高シリーズ同様に、「距離」は青春を描くにはもってこいなのだ。好きな場面はたくさんある。例えば、9話ラストでついに南極へたどり着き、報瀬が発した言葉。
ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!あんたたちが馬鹿にして鼻で笑っても私は信じた!絶対無理だって裏切られても私は諦めなかった!その結果がこれよ!どう、私は南極についた!ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!
南極へ着いた第一声が、感動ではなく「ざまあみろ」なのだ。他にも、11話で日向が高校を辞めるきっかけになった友達へ報瀬が言ったセリフも良い。
あなたたちそのままモヤモヤした気持ち引きずったまま生きていきなよ!人を傷つけて苦しめたんだよ!そのくらい抱えたまま生きていきなよ!それが人を傷つけた代償だよ!今さらなによ、ざけんなよ!
この断固として誰かを許さない態度に共感する。僕は大人になることができないので、許すことが正義であり素晴らしいみたいな風潮はどうしても受け入れることがない。今でもかつて向けられた悪意に「ざけんなよ!」と思っている。10話で、キマリが結月に友達とはどういう存在なのかスマホを見ながら話すシーンも良かった。
でも、なんとなくわかる。画面を見てるとね、ピッて読んだよってサインがついたり、なにか返ってきたり。すぐだったりちょっと時間が空いたり半日後だったり。それを見るたびになんとなくわかるんだ。ああいま学校なんだなあとか、寝てたんだなあとか、返事しようかちょっと迷ったのかなあとか。わかるんだよ、どんな顔してるか。変だよね。私にとって友達ってたぶんそんな感じ。全然はっきりしてないんだけどさ、でもたぶんそんな感じ。
とてもストレートなセリフだ。しかし、そこにいない誰かのことを想像するのはやはり特別なことなのだ。良かった場面を上げればキリがないのだが、やはり12話は特別に素晴らしくそして辛い。観て確かめてほしい。とにかく全話通して、まったく飽きさせないし、なんというかとても誠実な作品なのだ。去年のアニメなのに今さら熱くなっている自分が恥ずかしい。
明日も休みだ。やはり、就職先を見つけようと思う。本当のところは、書くことを仕事にしたいと思っていたが、今の僕にとってそれは難しいのではないかと思っている。いや、本音を言えば仕事にしたいですけれども。昨年末からここで書いた3年分の日記をまとめていたのだがやっと終わりの目処が見えてきた。振り返って読んでいると、いつも同じようなことを書いていて笑ってしまう。きっと5年後も10年後も同じようなこと考えて書いているんだろうな。

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目の前には水蒸気

起き上がる気力もなく、ベッドで横になり、枕元に置かれた加湿器から白く水蒸気が立ちのぼるのをぼーっと見つめている。この状況、短歌とかで詠まれてないかと思ったがまったく思い出すことができない。

2日前からインフルエンザにかかってしまった。アルバイトを週1にすると宣告されたその日の夜に、途端に熱が上がり一晩中眠りにつくことができなかった。目をつぶり、また目を開けて、数時間寝たかもしれないと思い時計を確認すると30分しか経っていないというのを何度も繰り返しなんとか朝を迎え、ふらふらしながら病院へ駆け込んだ。安定の1時間長の待ち時間である。壁に体をもたれさせながら名前を呼ばれるのを待つ。かわるがわるに現れる年配の患者さんの受付での長い世間話に苛立ちを覚えてしまう。こんな調子で医者にも話をしてるんだろうなあ、と自分の具合が悪いばっかりに嫌な方向へ考えが及ぶ。早く診察してくれ、早くインフルと診断してくれ、と切に願っていると名前を呼ばれ診察室へ行く。症状を説明するとすぐに検査。あっという間にインフルの診断が下された。インフルの患者はベッドに寝かせてもらえるらしく、横になってしばらく休んでからそこで処方箋とお会計もしてもらえた。いやーやっぱり具合悪い人には優しいなあなんて思っていたが単なるインフル患者の隔離であったことに2日経った今になって気づいた。どうしようもなく具合の悪い時は、どんなことでも優しさのように思えてしまうのだ。薬局で薬をもらい、スーパーでレトルトのおかゆを買い込んで家に帰り、薬を飲んで一日中寝ていた。今日はまだ熱はあるようだがだいぶ楽になった。昨日買ったおかゆを食べて、ずっと横になったまま1日を過ごした。 

先ほど書いた今の目の前の状況に似た短歌をどうしても思い出したくなり、「病床 短歌」などと必死の検索を試みると見事に引っかかってきた。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

そうそうこれだこれだと、ベッドの中でひとり合点がいく。しかし、僕の目の前には藤の花などない。この歌を詠んだ時の正岡子規の姿だけがなぜか頭に張り付いていたのだ。ちなみに今の僕の目の前の景色を正岡子規風にアレンジするとこうなる。

部屋の隅ゆっくり昇る水蒸気天には届かず溶けて消える

なにもかもが輝いて手をふって

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静岡駅前行き、と書かれたバスが信号待ちをする僕の前をゆっくりと走っていく。窓際に座る人が、窓ガラスに頭をもたれさせながら、ぼんやりと外を眺めている。松屋、渋谷マークシティ、サンデーコーヒー、道玄坂マンモス、餃子の王将。目に見える看板の言葉を頭の中で唱える。バスに乗っている人は、目線が違うので異なる景色、看板が見えているのだろうか。その時は、ちょうど夜の19時前で、目の前を通り過ぎていったバスは22時には静岡に着くだろう。東京のネオンを夜のバスから眺める時の、寂しさと安堵が混じり合った気持ちを思い出す。最近はめっきり夜行バスに乗っていないなあ、どこかに行きたいなあ、なんて思いながら映画館へ急いだ。ユーロスペースで杉田協士監督『ひかりの歌』を観た。公募で選ばれた4つの短歌から作られた映画だ。

反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった

自販機の光にふらふら歩み寄りごめんなさいってつぶやいていた

始発待つ光のなかでピーナッツは未来の車みたいなかたち

100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る

この短歌を元に4つの短編が連なる。一言で感想を述べるのならば、等しくさびしく等しく優しい映画だった。映画の中では、常に誰かから誰かへの想いが描かれる。そこには、大きな声の好きも、愛してるもない。ただ誰かから誰かへのまなざしがあるだけだ。そしてそのほとんどが交わることのない想いだ。交わることのないさびしさと、そんな彼ら彼女たちを捉えるカメラの優しいまなざしは等しくスクリーンの中で同居する。個人的には、2つ目の「自販機の光にふらふら歩み寄りごめんなさいってつぶやいていた」を元にした短編に胸をつかまれた。ガソリンスタンドが舞台になっているのだが、スタンドの中の自販機に自分の幼い頃の記憶とリンクする部分があった。僕の祖父母の家は、スタンドを経営していた。家とスタンドが繋がっており、裏口からそのまま事務所に入れるようになっていた。そこには、自販機があった。夜、ジュースを買っておいでとおばあちゃんから小銭を貰い、裏口からスタンドに入ることがよくあった。閉店したスタンドの、真っ暗な事務所の中でうなりながら光る自販機は怖くもありながら、胸を高鳴らせた。誰もいない、静かな暗い場所で、自販機の光に照らされながらガタンと飲み物が落ちる音を何度も聞いた。そんなことを、映画を観ながら思い出した。

祝日の月曜日に芸劇で、ままごとの柴幸男作演出の多摩美演舞卒制演劇『英雄』/『運命』を観た。『英雄』は、auに引っかけ、ドコモ、ソフトバンク、auの三大携帯キャリアの対立をロミオとジュリエットに置き換えた見事なパロディだった。ロミオとジュリエットと言えばあのバルコニーだが、劇中ではバルコニーが2chのスレッドであったり、ロム専やグンマーなどのネットスラングが多用され、平成生まれにとっては笑うことのできるワードだった。劇中での携帯は、主にガラケーのことであるが、終盤にスマホが登場し、物語を掻き乱すことになる。平成という時代をある側面から見た場合、「携帯」の登場は欠かすことのできないものであり、平成最後という節目に中世ヨーロッパの古典と平成を携帯によって結びつけ新たな物語を作り上げる手腕に唸った。また、恋愛関係になるのは同性であり、そこにも時代のアップデートを見た。お正月に、NHKで平成ネット史が放送され話題になっていたが、『英雄』はある意味で演劇版平成ネット史だった。

『運命』は、『英雄』とはガラッと舞台も時代も変わり、現代の大学が舞台になる。13人の登場人物が一人一人登場し、「運命の話をします」と、各々に課された運命について語る。登場する大学生たちは「生贄」や「友食」、「孤独」から「分解」「留年」「便秘」まで様々な運命を背負っている。そして彼ら彼女たちは、個人に課された運命よりももっと大きな運命の前になすすべもなく食べられていく。そして排便され、ともに等しい存在となる。怪物から逃げ惑うパニック劇でもあるし、個人の運命をも凌駕するもの、すなわち神が登場する演劇でもあった。ちなみに、「運命」は、美味しいものを食べた時の「うんめー」とかけている。だから食べることが物語を繋いでいる。全く関係ないが、僕が唯一ライブに行ったことのあるアイドル、ゆるめるモ!の曲に「うんめー」というのがある。大森靖子が提供しているとても好きな曲だ。

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タイトルは運命を意味しているのにずっと美味しいの意味の「うんめー」だと思っていた。だって歌い出しがポテチなんだもの。ちなみに、銀杏BOYZの「恋は永遠」の歌詞の最後にも「うんめー」が出てくる

夕暮れの街 泣いたり笑ったり
白いブラウス 溶かしてよメロディ
Strawberry fieldsの夢
セブンティーンアイス うんめー

この「うんめー」も「運命」なのだろうか。

そんな銀杏BOYZのライブへ先日行ってきた。 

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おそらく、多くの人がそうであるように銀杏BOYZの曲は各々の人のある時期の思い出にべったりと張り付いている。この日はある意味で、僕にとっては高校時代の清算をしたライブだった。峯田さんが「あなたが自転車を漕ぎながら、電車に乗りながら聴いた曲かもしれない」と言って歌い出したのが「夢で逢えたら」で、もう目頭が熱くなってしまった。高校生の時、自転車に乗りながら、立ち漕ぎをしながら聴いていたのがまさにその曲だったのだ。

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峯田和伸は恥ずかしいほどに、けれども切実に愛してるも好きも大きな声で叫ぶ。その叫びは生きていることそのものだ。ありふれた言葉ではあるが、格好つけないかっこよさがそこにはある。今回のライブは、「世界がひとつになりませんように」という題がつけられている。各々の捉え方は自由だが、僕はこれをばらばらでいることの肯定だと思った。ひとつになれないからこそ、だからこそ愛してるも好きも切実さを帯び、僕たちは必死に誰かと繋がろうとするのだ。そんな生きていることそのものを見せつけられた後のアンコールでの「ぽあだむ」の圧倒的なポップさに感動した。

80円マックのコーヒー!                            
反政府主義のデモ行進!
愛と絶望とキャミソール!

この全てが並列に歌われることに痺れる。そしてその後に続くのが

I WANT YOU だぜ
I NEED YOU だぜ
I LOVE YOU べいべー

このありふれた言葉による絶対的なポップさに胸がいっぱいになった。
銀杏BOYZの曲を何度も何度も聴いていたのは中高生の時だ。こんなことを言うのは本当に恥ずかしいのだが、世代でもなんでもない僕は、銀杏BOYZを聴いているのは学校で自分だけだと思っていたし、自分のためだけの音楽だと思っていた。あれから何年も経ち、今はほとんど聴くことはない。けれども、ふと振り返った思い出の中でいつだって光りかがやいているのは銀杏BOYZで、ずっとそこで鳴り続けている。

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『ひかりの歌』での言葉にされない愛も、銀杏BOYZの大声で叫ばれる愛も、僕はどちらも等しく優劣なく存在する世界であってほしいと思っている。どちらも愛であることにはかわりないのだから。

一生枯れさせない

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このペン、今朝借りたままで。すみません

あっ!どこかで無くしたかと思ってたんです!よかった。

日がすっかり沈んで、室内と外の境目のぼんやり薄暗い場所でかわされたほんの数秒の会話に、どうしたって喜びを感じてしまう。アルバイト先に毎日来る佐川さんは、ここ数日、寒さのせいか手袋をしている。今朝、荷物受け取りのサインをするためペンを借り、そのまま返し忘れてしまった。夕方、集荷の際に返すと、失くしたと思っていた物が思わぬところから現れたその意外さに喜び驚いていた。毎日顔を合わせているが、普段は業務的なやり取りしかしないその人のつかの間の感情の露出に嬉しくなってしまった。人との付き合いは、深ければ深いほど良いと言われるような世の中で、ペンの貸し借りという表面だけの交流に、その日を締めくくるには相応しいコミュニケーションを取った気になっている。美容院での表面だけのコミュニケーションには心底嫌気がさすのだが、寒く薄暗い、ダンボールに囲まれた室内と外との境目で行われた会話はとても愛おしい。

今日の夜は、カネコアヤノ単独演奏会2019「さいしん」を聴きに行った。裸足で舞台に立つ彼女の歌う、地に足のついた力強い日常に胸を奮わせた。僕は、高らかにかかげられた大きな声の日常は嫌いだ。そんなところに日常なんてない。だから、言葉にされ、作られた丁寧な生活なんてものは生活でもなんでもないと思っている。カネコアヤノの歌には、日常が、生活がある。しかし、その日常は生活は、血の通った確かなものなのだ。「きっと大丈夫になる」「大丈夫な気がしてる」なんて曖昧な言葉がカネコアヤノの歌にはあるが、この漠然とした、けれども前を向いた祈りのようなものの連続が生活なのではないか。だから、「ごあいさつ」という曲がとても好きだ。気分が良いので歌詞を全て引用する。

君のなんでもない話を聞くフリしながら
こんにちはって意外と言葉で言わないとか考えている 意味はないが
今となりの君のまつ毛がおちるのを
見逃さなかったよ

手帳の書きそびれ今月沢山あったな
きっと、いつかは、と願いと祈りは続いてゆく

どうでもいいね 意味はないし
でも救いも愛も信じていられると
毎日楽しいよ

消えたお気に入りの栞の行方も気にならないな
新しいものを買いに行こうよ
しあわせだよ今
となりの君のまつ毛が落ちるのを
見逃さなかったよ

日常の愛おしさを「となりの君のまつ毛が落ちるのを見逃さなかったよ」という瞬間に集約させていて痺れる。

ライブでは、好きな曲の「とがる」を聴けて嬉しかった。

今夜も月がきれい
それだけでしあわせ
あなたの花は枯れない
一生枯れさせない

かわる!かわる!
かわる!かわる!
かわってく景色を受け入れろ

いつだって苦しいよ
だけど今日はたのしい
あなたの花は枯れない
一生枯れさせない

穏やかな日々は良い
だけどたまに 飽きる
愛が花束になる
一生枯れないやつ

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 2時間のライブで10分間の休憩あり、アンコールもなしで、なんとなく過剰さのないそういうところも好きだった。これからもずっとカネコアヤノを聴き続けいく。この映像を何度も何度も見ている。なんという力強さよ。

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 なんてことないペンの貸し借りをして、夜には良い音楽を聴いて、真夜中に1日の振り返りを書く。寝る前に、明日は早起きできますようになんて祈るそんな生活。ずっとずっと続いてくれ。

 

ゆるい坂の上から

苦しくても書いて、苦しいから書いて、楽しかったこともうれしいことも、
ゆるい坂の上から町全体を公平に見下ろすような視線で書いていってほしいです。

先日、このような言葉をいただいた。ここにその言葉を載せることは、その言葉をくれた人を自分のために消費することになるのではないか、載せるべきではないのではないかととても悩んだ。結局のところ、載せてしまったわけで、さらには悩むそぶりを見せる嫌な自意識の露出の仕方をしてしまっている。しかし、これほど背中を推してくれた言葉はなく、これからも書いていこうと思えたことはなかった。本当に嬉しかった。

先週実家に帰るまでの6時間以上の電車旅で、唯一途中下車した小淵沢駅で撮った写真が現像された。

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この前も書いたけれど、なんにもない街だ。けれども、正月飾りだとか、駅に子どもを迎えに来たのであろう親子など、そこかしこから香る生活の断片はいたるところにあった。そんなことにいちいち感傷的になっていられるのは、一人で知らない街を歩いているからだ。知らない街ほど他人に興味がわくのは何故だろう。自分を知っている人がいないからだろうか。2018年の12月31日はとても晴れた日だった。そんなことも写真を見なければ思い出すこともできない。

日曜の夜は、楽しみにしていた大河ドラマの『いだてん』を観た。もちろん脚本がクドカンだから観たわけだ。まず、冒頭のほんの十秒たらずのシーン。穴の下から空を映したカットと、それに続く、その穴を飛び越える姿を撮ったカットは、スッポンから人が飛び出てくるようで、いきなり歌舞伎への目配せを感じた。

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その時に後ろで流れているのは拍子木の音なので、確信的な演出だろう。歌舞伎においてすっぽんからは、幽霊など人間ではないものが出てくるので、生きている人間を扱わない大河ドラマがすっぽんから始まるのはある意味納得感がある。ちなみに、1年ほど前に上演された野田秀樹による中村勘三郎オマージュの『足跡姫』でのすっぽんを使った演出に僕は心底感動した。話をドラマに戻すと、最後5分では、勘九郎演じる金栗四三がかぶる赤い帽子の色が落ちて顔に垂れ、隈取りのようになるシーンもあり、とことん役者と歌舞伎への紐付けが行われていた。ドラマの口火を切るセリフが東京03の角田で、しかもたけしとキョンキョンをタクシーに乗せているので笑ってしまった。東京オリンピックだから東京03を起用したのか。続々と登場するキャストの豪華さだけで十分見応えがあるわけだが、軍国主義的な体育とそれに対するスポーツとしてのオリンピックという構図など面白い要素がいくつもあった。しかもその中で体育派が主張する、「体も心も未熟な若者に一国の命運を託すのはよくない」や「勝ち負けにこだわる醜さ」など、一見正しいようでしかしその先の戦争のことを考えれば矛盾している姿勢などなかなか面白かった。今後も毎週日曜が楽しみだ。

 いまはアルバイト帰りの電車の中で、家に帰ったら豚汁を作ろうと考えている。その理由はただ一つ。寒いからだ。アルバイトでは、書籍をダンボールに詰めて発送したり、本のカバーや帯を綺麗なものと交換する作業をしている。その際に、手がかじかんで仕方なく、今日の夕飯は温かいものを食べるぞと仕事中ずっと考えていた。そして電車の中で、そうだ豚汁を作ろう、と思い立ったのだ。まず、最寄駅に着いたらスーパーに寄って材料を買う。ご飯はもう炊いてあるので問題はない。豚汁はもはやおかずという認識なので、白いご飯だけで十分だが焼き魚でもあればそれ以上の幸せはない。そんな想像だけでもう口の中は豚汁の味になってしまっていて、家に着くのが楽しみで仕方がない。けれども、途端に料理をするのが面倒になってしまう可能性もあって、出来合いのものを買って帰路についてしまうこともありえる。家に味噌はまだあっただろうか、ごま油はあっただろうか。そんなことも不安材料だ。今、電車の隣にいる人は、僕の頭の中が豚汁のことでいっぱいだとは思いもしていないだろう。けれども、実はその隣の人の頭の中はハンバーグのことでいっぱいの可能性もあって、要するに他人のことなどわかるわけがない。

そして数時間後の今、お腹は満たされ、うとうとしている。無事、豚汁を作り、ああ美味しかったなあとベッドの上で幸せに浸っている。ここ半年ほどで、幸福感に対するハードルが下がっているので、豚汁だけで幸せになることができる。ハードルが下がるというとなんだか良いイメージではないので、幸せと思える範囲が広がったというべきか。
明日もきっと寒い。せめて風は強くありませんように。あと、いつも混んでる電車が運よく空いてる車両でありますように。そんな些細な幸福をください。きっと大きな幸せに感じるので。

西日が差すだけ泣きそうで

初めは危い谷の小川の橋を渡るような
心配事があるが
驚き迷うことはありません                                  
後には何も彼も平和に収まります                 
凡て小さいことも用心していればよろしい

おみくじの言葉だ。今年2回目のおみくじも大吉であった。2019年は大吉を乱獲している。この調子で世の中の大吉をかき集めていきたい。けれども、1回目の大吉の運を2回目の大吉で使ってしまったとしたら、大吉を差し出して大吉を手に入れただけなのかもしれない。大吉は大吉でしか還元されない説をここに掲げる。なぜこんなどうでもいいことを考えているのかと言えば、東京への特急列車に乗っているからだ。帰省には片道6時間以上かけたが東京へは早く戻りたいので高額を払い2時間半の切符を買った。高いお金を払えば早く着くというなんたる理の適いかたよ。とにかく車内で暇を潰すために書いている。ここまで書いて、結局更新するのは夜になってしまった。今はベッドの上だ。

実家にいる間に、「本・中川」という素敵な本屋さんに行った。

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僕が通っていた高校のそばにあるお店で、当時はまだなかった。外はトタンですぐには本屋には見えない。中に入ると決して広くはないお店の真ん中に木が一本あり、その周りを囲うように本が置かれていた。窓からはサッと光が差し込み、だるまストーブの上のやかんが時折音を立てていた。そんな空間で、『本を贈る』と誠光社の堀部さんが書かれた『90年代のこと』を買った。アルバイト先の関係で「本・中川」さんとは手紙のやりとりだけしたことがあったので、お会計の時に勇気を出して声をかけた。すぐに気づいてくださり、安堵した。とても優しい方だった。お店を後にして、そのまま写真を撮りながら高校時代に通っていた道を歩いた。1枚目の写真の奥に見えるのが通っていた高校だ。

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写真として切り取って見ると、こんな街に住んでいたのだなと改めて思った。お城のお堀にいた鴨が、くるっと首を後ろに回して寒そうに自分のくちばしを体にうずめていて可愛かった。人間がポケットに手を突っ込むような感覚なのだろうか。

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帰り際に駅前の大きな本屋へ行った。選ばれたものの中から選択するのか、無限にも思えるものの中から選択するのかどちらがいいのだろう。小さい本屋が増えてきている今、こんな議論が時折起きるが、うまく使いこなしていきましょうとしか言えない。顔の見える本屋もいいし、顔の見えない本屋もいい。家の近くで少し遠回りをして、小学校と中学校の時の通学路であった川沿いを歩いた。もうほとんど日は沈み、ぼんやりと山の向こうに橙色の光が見えるだけだ。きっと10年以上前も同じ景色を見ていたのに、あの時は美しさに目を奪われるなんてことはなかった。夕焼けなんてありふれた美しさに感動してしまう大人になった。子どもの方が純粋な目で物事を見ることができるといったことをよく聞くが、いま美しいと思えているのだから大人になってよかった。感情とは本来あるものではなく、獲得していくものなのだ。

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肉眼ではもっともっと美しいのだが写真にはどうもうまく写らない。こんな時に、写真には写らない美しさがあるから、なんて歌が流れてくればあまりにも出来すぎた話になる。もちろん、そんなことはない。

なんにもないけど この先ずっと                      
情けないことも許してほしいよ                        
おそろいポニーテールしようよ  昔のように
騒がしい路地の隙間から西日が差すだけ泣きそうで
すべてのことに理由がほしい

イヤフォンからはそんな歌が流れていた。ポニーテールもできないし、路地もないこの道で。